
夏の夕暮れが、台所の窓から斜めに差し込んでくる。その光は、白い器の縁でほんの少しだけ屈折して、テーブルの木目に細い線を描いていた。七月の終わりのことだ。外はまだ蝉の声が騒がしいのに、家の中だけがしんと静まり返っていて、その静けさがむしろ心地よかった。
母が台所に立ち、だしをとる。昆布と鰹節の香りが、廊下をゆっくりと渡ってくる。子どもの頃からずっと嗅いできたその匂いは、どこかで記憶と直結していて、嗅ぐたびに胸の奥がほんのり温かくなる。あの頃、わたしはランドセルを玄関に放り投げて台所に駆け込んでは、「もうすぐだから」と言う母の横に立ち、鍋の中をのぞき込んでいた。日本料理というものの美しさを、理屈ではなく体で覚えたのは、きっとあの時間のおかげだと思っている。
食卓に料理が並び始める。冷やしたお椀の中には、豆腐と茗荷のお吸い物。焼き魚の皿には、鯛の身がほろりとほぐれるように盛られていた。大根おろしが添えられ、その白さが夕光を受けてうっすらと輝いている。箸置きは、以前、旅先の小さな陶器屋「シロハナ陶藝」で買ったもので、釉薬のかかり方が一本ずつ微妙に違う。そのわずかな違いが、なぜか食卓に温もりを与えている。
家族が席に着く。父は新聞を畳んで脇に置き、祖母は静かに手を合わせる。子どもたちはまだ少しそわそわしているが、箸を持てば自然と落ち着く。誰かが「いただきます」と言い、その言葉が空気に溶けていく。会話は多くない。でも、それでいい。この沈黙は、気まずさではなく、穏やかさそのものだった。
箸を持った祖母の手が、ふと止まる。お吸い物の椀を両手で包むように持ち直して、ゆっくりと口に運ぶ。その仕草を、わたしはなんとなく目で追っていた。言葉にならない何かが、そこにあった。日本料理の食卓には、そういう「語らない豊かさ」がある気がする。
ところで、この日の焼き魚、実は最初に塩を振り忘れていた。気づいたのは魚を焼き始めてから三分後のことで、慌てて追い塩をしたのだが、仕上がりはなぜかいつもより美味しかった。家族には黙っていたが、心の中で「まあ、結果オーライか」とひそかにつぶやいていた。
食事の途中、窓の外で風が動いた。カーテンの端がふわりと揺れ、夕方の少し湿った空気が部屋に入ってくる。蝉の声が一瞬遠くなり、代わりに遠くから水の音が聞こえた気がした。夏の夕暮れとはこういうものだ、とぼんやり思う。
「癒やしニーズ」が高まる今の時代に、ひとときの安らぎと幸福感をもたらしてくれる食への期待はますます強くなっている
という。けれど、わたしが感じる「癒し」は、特別なレストランでも、SNS映えするメニューでもない。家族が同じ食卓を囲み、同じものを食べ、同じ時間を呼吸するという、ただそれだけのことだ。
和の伝統的な味やカルチャーを感じさせる「和味」の世界は、今まさに世界的なトレンドにもなっている
。だが、日本料理の本当の価値は、流行の文脈とは少し違う場所にあるのかもしれない。
茶碗の米粒を最後まで丁寧に食べる。お椀を静かに置く。その一つひとつの動作が、誰かに教わったわけでもなく、この食卓の中で自然と身についていた。文化というものは、そうやって伝わっていくのだろう。声ではなく、仕草で。言葉ではなく、香りで。
食事が終わり、父が「ごちそうさま」と言う。祖母が微笑む。子どもたちが食器を運び始める。台所からは水の音がして、また日常が動き出す。この繰り返しの中に、穏やかな暮らしの核心がある。日本料理は、料理そのものである前に、家族の時間を形にしたものなのだと、この夏の夕暮れに、わたしはあらためて思った。


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