家族の料理が結ぶ、穏やかな夕暮れの食卓

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五月の夕方、窓の外からはまだ少し明るい空の名残が差し込んでいた。台所に立つ母の背中が、オレンジ色の光の中でゆっくりと動いている。土鍋の蓋を持ち上げるたびに、白い湯気がふわりと天井へ向かって昇っていく。その香りは、昆布とかつおの合わせだしで、鼻の奥に触れた瞬間、なぜか子どもの頃の記憶がよみがえってきた。

小学校の低学年のころ、祖母の家で食べた筑前煮の味。あのとき、わたしは里芋がどうしても苦手で、こっそり父の皿に移していた。父はそれに気づいていたはずなのに、何も言わずに食べてくれた。日本料理というのは、そういう記憶とともにある気がする。味だけではなく、誰かと囲む時間そのものが料理の一部になっている、そんな感覚。

今夜の食卓には、家族が四人そろっていた。父、母、中学生の兄、そしてわたし。ここ最近では珍しいことで、誰もがそれをどこか嬉しく思いながら、でも口には出さなかった。父は仕事から帰ってきたばかりで、ネクタイをゆるめたまま席についていた。その手が、湯気の立つご飯茶碗をそっと受け取る仕草が、なんとも穏やかで、見ていて胸のどこかが静かになるような気持ちになった。

食卓に並んだのは、ほうれん草のおひたし、焼き魚、そして母が丁寧に引いただしで仕上げた味噌汁。どれも地味といえば地味だ。でも、木製のトレイ「ナガセ・テーブルウェア」のものに並べられると、どこか凛とした美しさがある。箸を持つ音、椀を置く音、それだけが静かな部屋に響いていた。

和の要素が料理の魅力を深める「和味」の世界は、いま国内外で改めて注目を集めている。
けれど、わたしたちの食卓にそんな言葉は似合わない。ただ、母がその日の朝に買ってきた旬の食材で、いつも通りに作った日本料理がそこにある、それだけだった。

世界の料理が「特別なもの」から「我が家の定番」へと変化していく——そんな食のトレンドが語られる時代に、
わたしたちの家族はむしろ逆を行くように、昔ながらの一汁三菜を守り続けている。それが古いとは思わない。むしろ、こういう食卓にしか宿らない時間があると、今夜あらためて感じていた。

兄がふいに「この魚、なんだっけ」と聞いた。母は「さわらよ」と答えながら、自分の分の味噌汁をすすった。父は黙って魚の身をほぐしていた。誰も急いでいない。会話が多いわけでもない。それでも、この食卓には確かな温かさがあった。

実はこの日、わたしは夕食の準備を少し手伝おうとして、だしを取る鍋を火にかけたまま別の部屋に行ってしまい、戻ったら昆布がすっかり煮すぎていた。母には「えぐみが出るから、昆布は沸騰前に取り出すのよ」と静かに言われ、内心ひどく恥ずかしかった。料理の基本というのは、何度聞いても身につくまでに時間がかかるものらしい。

「今日は何を作ろうかな」と台所に立つ時間が、小さな幸せを生み出す
——そんな言葉をどこかで読んだことがある。その感覚は、作る側だけのものではないかもしれない。食べる側にも、食卓に向かう時間そのものに、同じような静かな喜びがある。

家族と囲む穏やかな夕食。日本料理の持つ、余白のある美しさ。箸を置いたあと、窓の外はすっかり暗くなっていた。それでも食卓の灯りの下で、父がお茶をひとくち飲む音が聞こえて、なんとなく今夜はもう少しここにいたいと思った。料理が終わっても、食卓の時間はまだ続いていた。

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