
六月の週末、標高八百メートルの「奥霧ノ原キャンプ場」に家族三人で向かった。梅雨の合間を縫うように晴れた朝で、空気はまだ少し冷たく、車の窓を開けると針葉樹の香りが流れ込んできた。助手席では妻が地図アプリをにらみながら、「次、右」と言ったあと三秒後に「あ、左だった」とつぶやいた。後部座席の息子はすでに半分眠っていた。
キャンプの料理というのは、不思議なものだと思う。同じ食材を使っても、家のキッチンで作るのとはまるで味が違う。それは気圧のせいでも、火力のせいでもなくて、たぶん「場所」と「時間」が混ざり込んでいるからだ。
今回のメインは、ダッチオーブンで作るスパイスチキンと、子どもが自分で包んだ野菜のホイル焼き。出発前夜、鶏肉をクミンとコリアンダーと塩でもみ込んでおいた。この下ごしらえだけは自宅でやっておく、というのが我が家のキャンプ料理のルールになっている。もう三年続いている。
サイトに着いてテントを張り終えると、息子はすぐに焚き火台の前にしゃがみ込んだ。七歳の手で細い枝を並べていく。うまく火がつかなくて何度もやり直していたけれど、それを手伝おうとすると「自分でやる」と首を振った。その横顔が、去年より少しだけ大人びて見えた気がした。
炭が白くなりはじめた頃、ダッチオーブンをセットする。蓋の上にも炭を乗せて、じっくりと熱を回す。この待ち時間がキャンプ料理の醍醐味で、何もしなくていい時間がここにはある。じわじわとチキンの脂が溶け出す音、スパイスの香りが煙と混ざって風に流れていく感覚。子どものころ、父親が庭でバーベキューをするたびに同じ匂いをかいでいたことを、ふと思い出した。あのときの炭の熱さと、肉が焼ける音と、父の背中が重なって、なんだか胸の奥がほんのり温かくなった。
妻がホイル焼きの準備をしながら、「玉ねぎ切りすぎた」と言って笑った。確かに、アルミホイルの上に玉ねぎがこんもりと山を作っていた。ブロッコリーも入れた。今年から指定野菜になったと聞いてから、なんとなく使う頻度が増えた野菜だ。バターをひとかけらのせて、ホイルをくるりと包む。息子が「ぼくのはこっち」と自分でマジックで名前を書いた。
料理が完成するまでの間、家族はそれぞれ好きなことをしていた。妻はランタンの光の下で文庫本を開き、息子は石を集めていた。何の目的もなく石を集める子どもの行動は、大人にはもう理解できない純粋さがある。
ダッチオーブンの蓋を開けた瞬間、湯気がふわっと立ち上がった。スパイスの香りが一気に広がって、息子が「おいしそう」と駆け寄ってきた。チキンはほろほろに崩れて、皮はしっかりと焼き色がついていた。ホイル焼きも開けてみると、玉ねぎが飴色になっていて、バターの香りがじんわりと漂う。
家族で囲む食卓というのは、毎日のことだと少しずつ当たり前になっていく。でもキャンプの料理は違う。焚き火の前でみんなで同じ方向を向いて、同じものを待って、同じ匂いをかぐ。その時間が、何かを取り戻させてくれる感じがある。
夕暮れが山の向こうに沈んで、空が深い藍色に変わりはじめた頃、息子が「またキャンプしたい」と言った。口の周りにスパイスをつけたまま。それがなんだかおかしくて、妻と目を合わせてしまった。
料理は、ただ食べるためだけにあるんじゃないのかもしれない。作る時間も、待つ時間も、分け合う瞬間も、全部ひっくるめて「料理」なんだと、このキャンプで改めて感じた。家族と一緒にいる時間を、もっと丁寧に重ねていきたいと思う。

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