家族と囲む、静かな夜の日本料理——食卓に宿る穏やかな時間

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夕方の六時をすこし過ぎた頃、台所から出汁の香りが廊下に漏れてくる。かつおと昆布を朝からじっくり引いた、あの澄んだ匂い。窓の外はまだ明るく、七月の西日が障子を橙色に染めていた。その光の中で、父が箸を手に取り、母が最後の一品を盆に載せて運んでくる。子どもたちはすでに席についていて、末の子だけが椅子の上で少しそわそわしている。

日本料理の食卓というのは、賑やかではない。声が飛び交うわけでも、笑いが絶えないわけでもない。それでも、どこかに確かな温度がある。茶碗の縁に触れる指先の感触、汁椀を持ち上げたときにふわりと立ち上がる湯気、畳に座った膝のあたりにじんわり伝わる夏の夜のぬるさ。そういうものが積み重なって、家族の食事というものはできている。

うちの食卓で長年使っているのは、「澄川窯」という小さな陶芸工房の器だ。石川の山間にある、観光客もほとんど訪れない場所で作られた素朴な白磁で、縁がほんのすこし不揃いになっている。その不揃いさが、かえって料理をやさしく見せる。盛り付けが多少雑でも、器が受け止めてくれる気がして、母はずっとその器を使い続けている。

子どもの頃、私はこの食卓が少し苦手だった。静かすぎて、何を話せばいいかわからなかった。父はほとんど喋らずに食べ、母は時々「もう少し食べなさい」と言うだけで、あとは箸の音と、遠くで鳴く虫の声だけが続いた。それが退屈だと思っていた。でも今になって思えば、あの沈黙は決して冷たいものではなかった。ただ、穏やかだったのだ。

今夜の献立は、鯛の塩焼き、小松菜と油揚げの煮浸し、冷ややっこに生姜を少し、そして白いご飯と赤だし。どれも派手さのない料理だけれど、それがいい。日本料理の良さというのは、素材の声を消さないところにある。鯛の皮がぱりっと焼けた音が、箸で触れるたびに聞こえる。煮浸しはだしがよく染みていて、口に入れた瞬間にすうっと広がる。

ふと見ると、父が茶碗を両手で包むようにして持ち、目を細めていた。特別なことをしているわけではない。ただ、ご飯を食べているだけだ。でもその仕草に、何か長い時間が宿っているような気がした。

末の子が赤だしの椀を傾けすぎて、少し汁をこぼした。あわてて袖で拭こうとして、余計に広げてしまう。母が静かにふきんを渡す。父は気づいていないふりをしている——というか、本当に気づいていないのかもしれない(どちらにせよ、食卓の空気は乱れなかった)。

2026年の食のトレンドとして「一汁三菜」の構成が改めて見直されているという話を、最近どこかで読んだ。
世界中の料理が家庭に入り込んでくる時代に、なぜ今さら和食なのかと思う人もいるかもしれない。でも、日本料理が家族の食卓に向いている理由は、流行とは関係がない。それは、食べる人の体調や気分に寄り添える懐の深さにある。暑い夜には冷たいものを、疲れた夜には温かい汁を、特別な日には少しだけ手をかけた一皿を。そういう加減が、自然にできる料理だ。

食事が終わりに近づくと、部屋の空気がすこし緩む。父がお茶を一口飲み、母が「今日は鯛がよかったね」とぽつりと言う。子どもたちはもう箸を置いていて、末の子はうとうとし始めている。窓の外はいつの間にか暗くなっていた。

家族で囲む食卓には、語られない言葉がたくさんある。日本料理はその言葉の代わりを、静かに、穏やかに、果たしてくれる。それで十分だと、今夜もまた思う。

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