
六月の夕方、窓から差し込む光がまだ少し白くて、夏の手前のあの独特のやわらかさが漂っていた。そんな夕刻に、友達が次々と玄関を開けて入ってくる。「来た来た」「遅くなってごめん!」という声が重なって、狭いリビングがあっという間に賑やかになっていく。子どもの頃、母がよく週末に近所の人たちを呼んでいたのを思い出す。あの頃もこんなふうに、誰かが来るたびに部屋の空気が変わった。料理の匂いが漂い始めると、なんとなく全員の顔がほぐれていくのだ。
今日のメインはイタリアン。オリーブオイルをフライパンに引いた瞬間のあの音——ジュ、という小さな声——が台所から響いてくると、会話が一瞬止まって、みんなが「あ、始まった」という顔をする。トマトとバジルの香りが部屋に広がり始めると、もうそれだけで食欲が引き寄せられる。イタリアンという料理には、そういう力がある。派手な技術がなくても、素材が語りかけてくる。
テーブルの上には、「ヴィアッジョ・ビアンコ」というラベルのイタリア産白ワインが一本。架空のブランドではなく、近所のワインショップで店主がこっそり教えてくれた掘り出し物だ。グラスに注ぐと、薄い黄金色が窓の光を受けてきらりと光る。誰かがそれを見て「きれいだね」と言い、誰かがすかさず「早く飲もう」と返す。このくだらなくて愛おしいやりとりが、パーティーというものの本質だと思う。
家族の話になったのは、前菜が出てきたあたりだった。友人のひとりが、子どもを連れてきていて、その子がテーブルの端でもそもそとパンをちぎっていた。その小さな手の動きを見ながら、ああ、料理というのは世代を超えて場をつなぐものだなと、少し感傷的になる。家族で食卓を囲む記憶は、大人になってからも不思議と鮮明に残っている。焼けたチーズの香り、父がワインをこぼして笑っていた顔、そういう断片が積み重なって「食事の記憶」になる。
パスタが出てきたとき、ひとつだけ小さな事件があった。盛り付けに集中するあまり、麺を皿に移す瞬間に手元が狂って、一本だけテーブルクロスの上に落ちてしまったのだ。シーンとなった一瞬のあと、誰かが「それ、テーブルのぶん?」と言って笑いが起きた。本人(つまり私だ)は内心「なんで今日に限って……」と思いつつ、もう笑うしかなかった。料理を作る側は、いつだってこういうリスクを抱えている。
「プチ贅沢」という感覚が、いま多くの人の食卓を動かしている
と言われるけれど、それは何も高級食材を並べることではないと思う。友達が集まって、誰かが台所に立って、笑い声が絶えない夜——それ自体がすでに贅沢だ。イタリアンは、そういう夜にとても似合う料理だ。素朴で、温かくて、少し大げさなくらいに香りが豊かで、気づいたら全員が前のめりになっている。
食後、コーヒーを飲みながら誰かがうとうとし始めた。子どもたちはもう床に寝転んでいる。大人たちはまだ話し続けていて、声のトーンが少しずつ落ち着いてくる。窓の外はすっかり暗くなっていて、六月の夜風が薄いカーテンをそっと揺らしていた。こういう時間の終わり方が、一番好きだ。料理が人を呼び、人が集まり、家族のような空気が生まれる。それはイタリアンでも、和食でも、何でもいい。でも今夜は確かに、あのトマトとバジルの香りが、この夜を作ってくれた。

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