家族キャンプで作る料理が、なぜこんなにおいしいのか

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梅雨が明けたばかりの七月の朝、長野県の奥にある「碧葉の森キャンプ場」に車を停めた瞬間、空気がまるで別の惑星のものになった。都市の熱を帯びたアスファルトの匂いではなく、松と土と、どこか甘い草の気配。窓を開けると、その空気が顔に当たって思わず目を細めた。

テントを張り終えて、さあ料理の準備だ。家族キャンプの醍醐味はなんといっても、外で作る食事にある。スーパーで買ってきた夏野菜、パプリカ、ズッキーニ、それと地元の直売所で見つけた小ぶりなとうもろこし。食材を並べると、小学三年生の娘が「これ何?」と指差したのがビーツだった。去年から健康志向のレシピで話題になっている食材で、試しに買ってみたのだけれど、正直なところ自分でもまだ使い慣れていない。

焚き火台に火をおこす。最初の一本のマッチが湿気でうまく点かなくて、二本、三本と使った。娘がじっとそれを見ていた。四本目でようやく火が宿り、小さな炎が木に移っていく様子を、彼女は「すごい」と言って両手を膝の上に置いたまましゃがんでいた。その仕草がなんだかとても愛おしかった。

鉄製のスキレットに油を引いて、野菜を並べていく。ジュッという音が森の静けさの中に溶けていく。煙が白くたなびいて、それが逆光の朝日に透けて光った。料理というのは、家の台所でやるときとキャンプでやるときとでは、同じ行為でも全然違う手触りがある。家では段取りを考えながら黙々とこなす作業だけれど、外では音も匂いも光も全部が料理の一部になる気がする。

妻がコーヒーを淹れてくれた。アウトドアブランド「ノルデンクラフト」のホーローカップに注がれた黒いコーヒーを、両手で包むように受け取る。七月の朝でも山の空気は少しひんやりしていて、カップの温度がちょうどよかった。ひと口飲んだら、なぜか小学生の頃に父親とした川釣りのことを思い出した。あのときも朝早くに起きて、父が魔法瓶から注いでくれた甘いカフェオレを飲んだ。外で飲む温かいものは、記憶と一緒に体に入ってくるらしい。

ビーツはアルミホイルに包んで炭の端に置いておいた。三十分ほどで取り出してみると、ナイフを入れた瞬間に鮮やかな赤紫色が滲み出てきた。娘が「血みたい!」と言って一歩引いたのは、まあ正直なところ自分も最初そう思ったので、強くは否定できなかった。でも塩をひとつまみ振ってかじると、土っぽい甘みがあって、不思議と悪くない。娘も恐る恐る口に入れて、少し考えてから「おいしいかも」と言った。その「かも」が、なんともいえず可愛らしかった。

焼き上がった野菜を家族三人でスキレットを囲んで食べる。特別な調味料は何もない。塩と、持ってきたオリーブオイルだけ。それなのに、なぜこんなにおいしいのだろうと毎回思う。おそらく、空腹と、外気と、一緒に作った時間が、料理に見えない味つけをしているのだと思う。家族でキャンプをするたびに、その確信が少しずつ深くなっていく。

食べ終わって、スキレットを拭きながら息子が「また来たい」と言った。彼は今年で五歳になる。まだ包丁は持てないけれど、野菜をちぎったり、食材を袋から出したりするのを毎回手伝ってくれる。その小さな手が、料理の記憶の中に確かに刻まれていく。

キャンプの料理は、完成度よりも過程に意味がある。焦げても、塩加減が少し外れても、外で食べればなぜか帳消しになる。そしてその不完全さが、むしろ家族の間に笑いと会話を生む。今年の夏も、また来ようと思う。次はビーツをうまく使いこなしてみせると、心の中でひそかに誓いながら、炭の最後の火が静かに消えていくのを眺めていた。

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