家族キャンプで作る「とっておきの料理」――煙と笑い声が混じる、夏の夜の食卓

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夜の八時を少し過ぎたころ、標高八百メートルの「ミナカミ高原キャンプ場」では、まだ空の端に橙色が残っていた。テントの外に出ると、松の木が風に揺れる音と、どこかの区画から漂ってくる肉の焼けるにおいが混ざり合っていて、それだけで胸の奥がざわっとした。夏のキャンプというのは、どうしてこんなにも人を子どもに戻してしまうのだろう。

焚き火台に火をつけながら、今夜の料理の段取りを頭の中で組み立てる。スーパーで買ってきた地元野菜の袋、鶏もも肉、そしてアルミホイル。子どもたちはすでにランタンの周りに集まって、虫の話を大声でしている。妻が黙ってまな板を取り出し、玉ねぎを切り始めた。その横顔に、日常と少しちがう、ゆるやかな集中の表情があった。

料理をキャンプに持ち込むとき、いつも思い出すのは父親のことだ。子どものころ、家族で川沿いの河川敷にバーベキューに行くたびに、父は必ず「塩だけでいい」と言い張った。マリネも、タレも、スパイスも全部不要。肉と塩と火があれば料理は完成する、と。あのころは意味がわからなかったけれど、今になってようやく、その言葉の意味が体に染みてくる気がする。

鶏肉をアルミホイルで包んで、炭の端に置く。焚き火の音がパチパチと小さく弾け、煙がゆっくりと夜空に溶けていく。子どもたちがそろそろ腹が減ったと騒ぎ始め、長男が「まだ?」と三回聞いてきた。三回目には少しだけ声が高くなっていた。家族というのは、待てない生き物の集合体でもある。

妻がトマトとズッキーニをオリーブオイルで炒め始めると、香ばしい香りがテントのほうまで流れていった。2026年の夏は記録的な猛暑が続いていて、自宅のキッチンでは火を使いたくない日が多かった。だからこそ、キャンプの焚き火で料理をするこの時間が、逆説的に特別に感じられる。外だから暑くても許せる。煙が目に入っても笑っていられる。

アルミホイルを開けると、じゅわっと蒸気が上がった。鶏肉はほろほろに柔らかく、底に溜まった肉汁がきらきら光っている。長女がすかさず「いいにおい」と言って、箸を持ったまま前のめりになった。その仕草が、どこか小動物みたいでかわいかった。

盛り付けというほどのことはしない。ホイルのまま皿代わりにして、ちぎったバゲットと一緒に並べる。飲み物は、地元の道の駅で見つけた「シオカゼレモネード」というクラフトドリンクで、炭酸が弱めで、ほんのり塩気があって、なんとも言えない後味が残る。ちょっと変わっているけれど、これがキャンプの夜にとても合った。

食べながら、誰も大きな話をしなかった。次の旅行の計画でも、仕事の話でも、学校の話でもなく、ただ「これうまい」とか「もう一個ある?」とか、そういう言葉だけが行き交った。家族で囲む料理の場というのは、言葉が少なくていい瞬間がある。むしろ、少ないほど豊かなこともある。

火が小さくなってきたころ、子どもたちは満腹になって、ランタンの光の中でうとうとし始めた。長男がシュラフを半分だけかぶって、目を細めている。妻がそっとブランケットをかけてやった。その動作が、あまりにも静かで、あまりにも自然で、見ていて少し胸が詰まった。

料理は、食べ終わったあとも続いている気がする。片づけをしながら、焚き火の残り火を眺めながら、それでもまだ、あの夜の食卓は続いていた。家族とキャンプに来るたびに、料理はただの「食事の準備」ではなく、その場の空気を作るための行為なのだと実感する。包丁の音、炒める音、煙のにおい、子どもの笑い声。それらが全部まとまって、はじめてひとつの夜になる。

来年もまた、ここに来よう。そう思いながら、消えかけた火に最後の薪を一本だけ足した。

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