家族キャンプで作る料理が、なぜこんなにも特別なのか

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梅雨明け直後の六月下旬、空気がまだ少し湿っているのに、木陰に入ると不思議なくらい涼しい。そういう夜のことを、ずっと覚えていると思う。

今年の夏、わたしたち家族は長野県の山あいにある「ナカシロ高原キャンプ場」に三泊した。テントを張り終えた午後五時ごろ、西の空がオレンジと紫に溶け合って、それを見ていた七歳の娘が「絵の具みたい」とつぶやいた。その一言だけで、来てよかったと思えた。

キャンプに来ると、料理の時間が変わる。家では誰かが台所に立って、誰かがソファでスマホを見ている。でもここでは、家族全員が焚き火の周りに集まって、同じ鍋をのぞき込む。それだけのことなのに、なんだか祭りみたいな気分になってしまう。

この日の夕食はダッチオーブンで作る丸ごとチキンの蒸し焼きだった。仕込みは前日の夜に済ませていた。塩、ブラックペッパー、ローズマリー、そしてレモン。それだけ。シンプルにしたほうがいい、とキャンプ仲間に教わってから、余計な調味料を持ち込むのをやめた。

炭に火が回り始めると、脂が落ちるたびにじゅっという音がした。その音がたまらなくて、息子がダッチオーブンの蓋に耳を近づけようとして、夫に「熱いから離れろ」と叱られていた。ちなみに夫も五分後に同じことをやっていた。誰も何も言わなかったけど、全員が見ていた。

待つ時間が、キャンプの料理には必ずある。その時間がもったいないかというと、全然そうじゃない。娘は石を並べて何かを作り始め、息子は焚き火の煙を手で追い払いながら、それでも火のそばを離れなかった。わたしは缶ビールを一本あけて、木の椅子に深く腰かけた。松の葉が風に揺れて、さわさわという音が遠くから届いてくる。

四十分ほどして蓋を開けると、肉の焼けた香りが夜の空気に広がった。レモンとローズマリーが混ざって、なんとも言えない匂いになる。この瞬間が好きで、毎年キャンプに来ているのかもしれないと、そのとき本気で思った。

子どものころ、父がよくバーベキューをしていた。川沿いの河川敷で、鉄板の上で焼いたウインナーを食べた記憶がある。たいして特別な料理じゃない。でも今でも、あの煙の匂いと川の音がセットで蘇ってくる。食べ物の記憶というのは、味よりも、そのときの空気や音と一緒に残るものだと思う。だから今、自分の子どもたちにも、この焚き火の夜を残してあげたくて、毎年こうして家族でキャンプに出かけている。

チキンはほろほろに仕上がっていた。骨からするりと外れる感じが、ダッチオーブンならではだ。娘は「お肉やわらかい」と言いながら、もう次のひとくちを狙っていた。息子は無言で食べ続けた。七歳と十歳、まだ語彙は少ないけれど、おいしいものを前にしたときの顔は正直で、見ているこちらが満たされる。

食後は焚き火を囲んで、マシュマロを焼いた。串の先でゆっくり回しながら、ちょうどいい焦げ目をつけるのが難しい。娘のマシュマロは三回連続で燃えた。それでも「またやる」と言って、四本目の串を取り出した。その粘り強さは、どこから来るのだろう。

空には星が出ていた。梅雨明けの最初の夜だから、空気が澄んでいて、いつもより多く見える気がした。遠くのテントから笑い声が聞こえてくる。知らない家族の、知らない夜の話が、風に乗って届いてくる。

キャンプの料理は、手間がかかる。道具も重い。準備も片付けも、家の台所よりずっと面倒だ。それでも毎年また来たいと思うのは、きっとこういう夜があるからだ。家族で同じ時間を過ごして、同じものを食べて、同じ火を見ている。それだけのことが、日常の中ではなかなか難しくなってきた今、キャンプという場所が、その時間を取り戻してくれる。

炭が白くなって、焚き火が静かになっていく。子どもたちはもうシュラフに潜り込んでいた。夫がコーヒーを淹れてくれて、無言でマグカップをわたしに差し出した。受け取ったカップはほんのり温かくて、その温度がなんだか胸にしみた。

来年もここに来よう、とそのとき思った。何も言わなかったけれど、きっと夫も同じことを考えていたはずだ。

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