
秋の気配がひたひたと近づいてきた九月の初旬、家族三人で「奥ノ沢フォレストサイト」にテントを張った。標高八百メートルほどの高原に位置するそのキャンプ場は、朝晩の気温が十五度を下回り、都会では感じられないひんやりとした空気が肌に触れる。息子の陽太は七歳になったばかりで、到着するなりリュックを放り投げてそのまま林の中へ駆け出していった。
キャンプにおける料理というのは、家の台所でつくるそれとはまるで別物だと、私はいつも思う。鍋の底が直火で黒く焦げても、玉ねぎを切りながら目が沁みて涙が出ても、なぜか笑いながら続けられる。不思議な場所だ、焚き火の前というのは。
この日の夕食に選んだのは、ダッチオーブンを使ったローストチキンだった。
SNSでも話題になっていた「意外な食材の組み合わせ」にヒントを得て
、今回は鶏肉のマリネ液に少量のヨーグルトを加えてみた。前日の夜から漬け込んでおいたそれを、ダッチオーブンにそっと並べる。蓋を閉じ、炭をのせると、じわじわと熱が回り始める音がする——正確には音というより、静寂の中に溶け込む微かな気配、といった方が近いかもしれない。
妻の真帆が、薄切りにしたじゃがいもとにんにくをオリーブオイルで炒めながら、時折ふっと遠くを見る仕草をしていた。焚き火の光が横顔に揺れて、なんだかひどく絵になる。私が「何考えてるの」と聞くと、「煙、目に入った」と言って目をこすった。そういうことにしておこう。
四十分ほどが経つと、ダッチオーブンの隙間から肉汁と香りが漏れ出してきた。ローズマリーとにんにくと、焦げた脂の匂いが混ざり合って、あたりの空気をじんわりと塗り替えていく。陽太が林から戻ってきたのは、ちょうどその瞬間だった。鼻をひくひくさせながら「なんかいいにおいがする」と言い、そのまま焚き火の横にぺたんと座り込んだ。子どもの嗅覚というのはどうしてこんなに正直なのだろう。
思えば私も、子どもの頃に父とキャンプへ行った記憶がある。あのとき父が作ったカレーは、なぜかひどく薄かった。ルーを入れ忘れたのだと後から聞いた。それでも私はおかわりをした。スープのようなカレーを、黙々と。あの体験があるから、私はキャンプの料理に対してどこか「失敗してもいい」という余白を持っている。完璧じゃなくていい。外で、家族と、火を囲んでいるというそれだけで、食卓は成立する。
2026年の料理トレンドとして「冷凍ストック」や手軽な調理術が注目されている
中、キャンプの料理はむしろその逆を行く。時間をかけて、手を動かして、五感を使って作る。そのプロセスごと、食事になる。
蓋を開けたとき、チキンはきれいなきつね色に仕上がっていた。皮がぱりっとしていて、箸を入れると肉汁がじゅわっとにじみ出す。陽太が「パパ、これ今まで食べた中で一番おいしい」と言った。おそらく来週には忘れているだろう。でもそれでいい。この夜の料理は、記録ではなく記憶として残ればそれで十分だ。
夜が深まるにつれて気温がさらに下がり、焚き火の熱がありがたくなってきた。真帆が温めたコーンスープを金属マグに注いで、そっと渡してくれた。両手で包むと、じんわりと温かさが伝わってくる。家族で囲む食卓というのは、こういう小さな手渡しの積み重ねでできているのだと、焚き火を眺めながらぼんやり思った。
キャンプの料理は、うまくいかないことの方が多い。火加減は読めないし、風は吹くし、虫は来る。それでも家族と一緒に作って、一緒に食べる時間には、どこか代えがたいものがある。来年もまた、奥ノ沢へ来よう。今度はルーを忘れずに。

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