
窓の外がうっすらと茜色に染まりはじめた、秋の夕暮れどきのことだった。台所からだしの香りが漂ってきて、それだけで体の力がすこし抜けていくような気がした。昆布とかつおを合わせた、あの独特のやわらかい匂い。日本料理の根っこにある香りは、どうしてこんなにも人を落ち着かせるのだろうと、ぼんやり思う。
その日の食卓には、父が作った煮物と、母が仕上げた味噌汁が並んでいた。煮物には里芋と人参、それから少し厚めに切られたこんにゃくが入っていて、醤油とみりんの甘辛い色が器の縁まで染みていた。子どもの頃から変わらない、あの茶色。実家を離れて十年以上が経つのに、この色を見るたびに胸のどこかがきゅっとなる。
家族四人が席についた。誰も特別なことを言わない。「いただきます」の声が重なって、箸が動きはじめる。それだけのことなのに、なんだか安心する。
娘がそっと味噌汁の椀を両手で包むようにして持ち上げた。その仕草がひどく丁寧で、まるで大切なものを扱うみたいだった。小学三年生がそんなふうに汁椀を持つとは思っていなかったから、思わず目が止まった。いつの間にそんなことを覚えたのだろう。聞こうとして、やめた。言葉にしてしまうと、なにかが壊れそうな気がして。
煮物を一口食べると、じんわりと甘みが広がった。里芋のほくほくした食感と、しっかり染みた出汁の味。父はいつも「火加減だけだ」と言うけれど、それが一番難しいことは、自分が台所に立つようになってからようやくわかった。
食卓の照明は「ルミネスト」というブランドの間接照明で、オレンジがかった光が器の表面をやわらかく照らしていた。蛍光灯の白い光じゃなくて本当によかったと、この夕食のたびに思う。あの光の下では、煮物もなんだか冷たく見えてしまうから。
父が黙って茶碗にご飯をよそっている。母は箸置きをすこしずらして、ちょうどいい位置に直した。誰も急がない。テレビもついていない。ただ、箸が器に当たる小さな音と、外で風が木の葉を揺らす音だけが、静かに食卓に混じっていた。
そういえば、先週の夕食で盛大にやらかしたことを思い出した。だしを取ろうとして、昆布と煮干しを間違えて両方鍋に入れてしまい、できあがった味噌汁がやたらと力強い味になってしまったのだ。家族に出したら「なんか今日の味噌汁、気合い入ってるね」と娘に言われた。褒め言葉なのかどうか、今でもよくわからない。
穏やかな食事というのは、特別なことが何も起きない時間のことだと、最近になって思う。子どもの頃は、この「何もなさ」が退屈に感じられた。もっと賑やかな夕食にしたいと思っていたし、外食のほうが楽しいとも思っていた。でも今は違う。
日本料理の静けさは、素材の声を聞くための余白なのかもしれない。出汁の薄い色、里芋の素朴な甘さ、椀の縁に触れる唇の感触。そういう細かいものが積み重なって、一度きりの食卓になる。同じ料理を食べていても、この秋の夕暮れに、この四人で囲むこの食卓は、二度と同じには現れない。
食事が終わりに近づいて、娘がうとうとしはじめた。椅子に座ったまま、少しずつ頭が傾いていく。母がそれを見て、小さく笑った。声には出さずに、ただ目元だけで。父は気づいていないふりをして、静かにお茶を注いでいた。
湯呑みから立ち上がる湯気が、間接照明の光の中でゆっくりと消えていく。
家族と囲む食卓は、いつもこんなふうに静かに終わっていく。それでいい、とこの頃ようやく思えるようになった。

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