家族と友達が集まる週末に作りたい、賑やかなイタリアン料理パーティのすべて

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六月の夕方、窓から差し込む斜めの光が、ダイニングテーブルの上に並んだ白いお皿をやわらかく照らしていた。今年の夏は、誰かを呼んで、ちゃんと料理をしようと決めていた。ただそれだけのことなのに、なぜかずっと先延ばしにしていたことを、この日ようやく実行に移した。

友人たちが次々と玄関を入ってくる。大学時代からの仲間、職場で知り合った人、子どもたちの同級生の家族。気づけばリビングは十二人になっていた。子どもたちは廊下を走り、誰かの笑い声がキッチンまで届く。こういう賑やかさが、家の中に戻ってきたことが、正直うれしかった。

SNSで食トレンドが細分化する時代
になったとはいえ、こういう日に作りたい料理はやっぱりイタリアンだと思う。手が込みすぎず、でも食卓に並べたときに「おお」と声が出る。そういう料理の力を、今日ほど実感した夜はない。

メインに選んだのは、大きな鋳鉄鍋で仕上げるラム肉とトマトのラグーだ。前日の夜から赤ワインに漬け込んでおいたラム肉は、火にかけると深い香りをキッチン全体に広げた。ローズマリーとにんにくの香りが混ざり合い、それだけでもう、お腹が鳴る。隣でパスタを茹でるお湯がぐらぐらと沸いていて、湯気が天井に向かってゆっくり立ち上っていた。

家族みんなで準備するのがいつものスタイルだ。夫はパスタを担当し、小学三年生の娘はバジルをちぎる係。息子は「ぼくもやる」と言いながら、フォークでパルミジャーノを削ろうとして、三回に一回はチーズを床に落としていた。そのたびに「あ」と言って拾う姿が、なんとも微笑ましくて、誰も怒れなかった。

レストランと同等の美味しい食事を家庭で楽しめる
ことへの関心が高まっているというのは、実感としてよくわかる。でも、家で作る料理の本当の価値は、そのプロセスそのものにあるんじゃないかと、最近よく考える。完璧な盛り付けより、誰かが「おいしそう」と言いながら鍋をのぞき込む瞬間の方が、ずっと豊かだ。

前菜はカプレーゼと、ルッコラのサラダ。「ヴィラ・ロッソ」というイタリア産のオリーブオイルを惜しみなく使った。少し青みがかった辛みのある油で、フレッシュなモッツァレラにかけると、舌の上でふわっとほどけるような感覚がある。これは去年、旅先で偶然見つけたものだ。あの旅の記憶がここに繋がっていると思うと、料理はやっぱり記憶と切り離せないと感じる。

子どもの頃、母がよく作ってくれたのはトマトソースのスパゲッティだった。市販のソースに少しだけ砂糖を足す、それだけのレシピ。でも、あの甘さが好きで、大人になってからも無性に食べたくなる夜がある。今日のラグーにも、ほんの少しだけ砂糖を入れた。誰も気づかないかもしれないけれど、自分だけが知っている味の記憶がそこにある。

ひとときの安らぎと幸福感をもたらしてくれる食への期待はますます高まっている
という言葉を、どこかで読んだことがある。それは正しいと思う。でも、安らぎというのは必ずしも静かなものじゃない。今夜みたいに、騒がしくて、誰かの声が重なり合って、料理の香りが部屋に充満している、そういう状態の中にも確かに安らぎはある。

食事が始まると、会話が途切れる瞬間があった。みんなが黙って食べている、あの数秒。おいしいときにしか生まれない沈黙だ。窓の外では夕暮れがオレンジに変わり始めていた。誰かがワインを注ぎ足して、誰かが「また作って」と言った。

家族と友人が同じテーブルを囲む。そのためだけに料理をする夜というのが、一年に何度かあっていい。イタリアンはそういう夜に、不思議なほどよく似合う料理だと思う。

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