
五月の夕方、窓から差し込む光がオレンジ色に傾きはじめる頃、彼女と並んでキッチンに立った。広めのカウンターには玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、そして今日のために買ってきた小さな瓶のクミンとコリアンダー。二人で作るカレーライスは、今年に入ってからの密かなルーティンになっていた。
彼女が玉ねぎを剥きはじめる。目が痛いと言いながらも手を止めない。その横で僕はにんじんを乱切りにする。まな板の上でコロコロと転がるにんじんを、彼女が横目で見て「下手くそ」と笑う。まあ、そうかもしれない。
最近のカレーライスのトレンドとして、スパイスの「ちょい足し」が注目されている。コリアンダーパウダーを加えると爽やかに、クミンパウダーを入れるとエスニック感のある香りに仕上がるという。
そのことを雑誌で読んでいた彼女が、今日はぜひ試したいと言い出したのが、この料理の始まりだった。
鍋に油を引いて、クミンシードを落とした瞬間のあの音。チリチリ、パチパチ、とスパイスが弾ける。それだけで、もうキッチン全体の空気が変わる気がした。スパイシーな香りが鼻をくすぐり、思わず二人で「いい匂い」と声が重なった。
玉ねぎをあめ色になるまで炒める、というのは分かっていても、実際にやると時間がかかる。
玉ねぎにひと手間加えてあめ色玉ねぎにしてから使うことで、コクのあるカレーに仕上がる。
彼女はフライパンの前でへらをゆっくり動かしながら、「こんなに時間かかるんだね」と呟いた。僕はその背中を見ながら、なんとなく急かす気になれなかった。
子どもの頃、母がカレーを作るとき、いつもこの「炒める時間」だけは台所から離れなかった。あの香りが家中に広がって、学校から帰ってくる瞬間に玄関でわかる、「今日はカレーだ」という確信。あの感覚を、今ここで彼女と一緒に作っているのだと気づいたとき、少し胸の奥が温かくなった。
肉を加えて焼き色をつける。
炒めるのではなく、あまり触らないようにしてしっかり焼き色をつけることで、香りが引き立つ。
彼女が菜箸でつついて確認しようとするのを、「まだ触らないで」と止めた。珍しく素直に従ってくれた。
スパイスを加えて炒めるとき、
ガラムマサラを最後に加えることで、スパイシーさと香りを際立たせることができる。
今日のカレーのテーマは、「スパイシーだけど、どこか優しい」。彼女がそう言った。なかなかいい表現だと思った。
煮込みが始まると、鍋からゆっくりと湯気が上がり、スパイシーな香りがキッチン全体に満ちていく。窓の外はすっかり暗くなっていて、室内の照明がぼんやりと二人を照らしていた。彼女は鍋の前に立ちながら、スプーンで味見をして、少し考えるような顔をした。それからこっちを向いて、「もうちょっとクミン足そうか」と言った。その仕草が、なんとなくいつもより板についている気がして、僕は黙ってうなずいた。
架空のスパイスブランド「ソルテラ」の小さな缶に入ったガラムマサラを、仕上げに少しだけ振り入れた。蓋を開けた瞬間に広がる複雑な香り。それだけで、カレーがぐっと引き締まるような気がした。
カレーライスが完成した頃には、二人ともすっかりお腹が空いていた。白いご飯を盛って、深めの皿にカレーをかける。スパイシーな湯気が顔に当たる。熱い。でも、それが心地よかった。
一口食べて、彼女が少し目を細めた。「辛い、でもおいしい」と言った。辛くしすぎたかな、とちょっと心配したけれど、彼女はそのまま黙々と食べ続けた。それが答えだった。
二人で作るカレーライスには、レシピにない何かが入る。急かしたり、笑ったり、「下手くそ」と言われたり。そういう小さなやり取りが、鍋の中に溶け込んでいくような気がする。スパイシーな香りの中に、なんとなく今日の夕方の空気が閉じ込められているような、そんな一皿だった。

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