
窓の外で、五月の雨がアスファルトを叩いている。
午後九時を少し回ったころ。キッチンの換気扇だけが低く回り続けていて、部屋の中には玉ねぎを炒めたときの甘い香りがまだ漂っていた。二人が並んで立つには少し狭い台所で、彼女がゆっくりとまな板の上のブロッコリーを切り分けている。包丁の音がリズムよく続いて、それがなんとなく心地よかった。
こういう夜が、好きだと思う。
外食でもなく、デリバリーでもなく、ただ二人で素材を選んで、火を入れて、同じ皿に盛る。今年は健康志向と「自分をいたわる食」への関心が高まっているというけれど、それはきっと一人でいるときだけの話じゃない。誰かと一緒に、静かな夜に料理をするという行為そのものに、人はずっと前から癒やしを求めてきたのだと思う。
フライパンに少量のオリーブオイルを引いて、にんにくを入れる。ジュッという音と、むっとするような香りが鼻をかすめる瞬間、彼が「いい匂い」とだけ言った。それだけで、なんとなく会話が成立してしまうのが不思議だ。
今夜のメニューは、ブロッコリーと鶏もも肉のシンプルなソテー。それと、昆布だしを使った即席のスープ。特別なレシピではない。子どものころ、母親がよく作っていたものを、自分なりに少しだけアレンジした。当時はそれほど好きでもなかったのに、大人になってから急に「あの味」が恋しくなる瞬間がある。不思議なことに、誰かと一緒に食べるときほど、その感覚は強くなる気がした。
彼女がスープの味見をしながら、木べらで鍋をそっとかき混ぜた。そのとき、彼女の手首に巻いたシルバーのバングルが鍋の縁に軽く当たって、チン、と小さな音を立てた。本人はまったく気づいていない様子で、眉間にわずかにしわを寄せながら「もう少し塩かな」とつぶやいた。そのなんでもない仕草が、やけに鮮明に記憶に刻まれた。
料理をしながら二人でいると、会話がなくても不思議と沈黙が重くならない。沸騰する湯の音、フライパンの油がはじける音、皿をカウンターに置く乾いた音。それらが重なって、静かな夜の輪郭をつくっていく。
器は、以前二人で立ち寄った雑貨店「ソワレ・テーブル」で買ったマットな白のプレートを使った。縁が少し欠けていて、それでも捨てられないまま使い続けている。盛りつけると、ブロッコリーの緑と鶏肉の焼き色が映えて、思ったよりずっと美しかった。
食卓の照明を少し落とした。窓ガラスに雨粒が伝う。ワイングラスを合わせるでもなく、ただ向かい合って、同じものを食べる。鶏肉は外側がかりっとして、中はしっとりとしていた。スープは昆布のだしが効いていて、飲むたびに体の芯がほどけていくような感覚があった。
こういう食事には、名前がない。特別な日でもなく、記念日でもない。でも、だからこそ残るものがある。静かな夜に、二人で作った料理の温度と、換気扇の音と、バングルが立てた小さな音と。
食べることは、ただ栄養を摂ることじゃない。誰かと同じ時間を、同じ匂いの中で過ごすことだ。それがどれほど日常的であっても、どれほど地味な料理であっても、その夜はその夜にしか存在しない。
雨はまだ続いていた。皿を洗いながら、彼女が「また来週も作ろう」と言った。返事のかわりに、スポンジを渡した。それで十分だった。

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