
テントを張り終えた頃、空はまだ明るかった。標高の高いキャンプ場は夕方になると気温がぐっと下がり、息をするたびに白いものが混じりはじめる。子どもたちは早々に上着を引っ張り出して、それでもはしゃいで走り回っていた。
我が家が訪れたのは、長野県の山間にある「シラカバの森オートキャンプ場」。予約を取るのに三ヶ月かかった、念願の場所だ。白樺の木立に囲まれたサイトは、夕暮れになると木漏れ日が斜めに差し込んで、地面に細長い影をいくつも落とす。その光の角度がなんとも美しくて、しばらく眺めてしまった。
さて、問題は夕食だった。
キャンプの料理というのは、家のキッチンとは勝手が違う。火の強さが一定じゃないし、まな板は小さいし、なぜか調味料のひとつが必ず足りない。今回は醤油を忘れた。いや、正確には持ってきたはずなのに、バッグの底から出てきたのは「めんつゆ」だった。まあ、なんとかなるか、とそのまま使ったのだが、これが意外にも正解だったりする。そういう偶然が、キャンプ料理の面白さでもある。
焚き火台に薪をくべながら、夫が黙々と火の面倒を見ていた。子どもたちは「やりたい」と言って近づいてくるけれど、まだ小さいから少し離れたところで見ている。長女が「なんで煙って目にしみるの?」と聞いてきて、夫が「煙が好きだから」と答えていた。意味がわからないけれど、なぜか子どもたちは納得していた。
私はその間、ダッチオーブンでスープを作っていた。玉ねぎ、じゃがいも、ベーコン。シンプルな材料だけど、外の空気の中で煮込むと、なぜかいつもより香りが立つ気がする。湯気が白く立ち上って、冷えた空気に溶けていく。その匂いが漂ってきた瞬間、子どもたちが一斉にこちらを向いた。鼻って正直だな、と思った。
私が子どもの頃、父とよく川原でバーベキューをした。肉を焼くだけの、本当に素朴なものだったけれど、炭の匂いと川の音が混ざったあの感じは今でも覚えている。何かを食べていたというより、あの空気ごと飲み込んでいたような感覚。キャンプ料理の記憶というのは、味よりも空気に刻まれるものなのかもしれない。
火が安定してきた頃、夫がコーヒーを淹れてくれた。山専用のステンレスカップに注いで、「はい」と差し出す、その何気ない仕草がなぜか嬉しかった。カップを受け取ると、手のひらにじんわりと熱が伝わってくる。一口飲んで、ああ、これだな、と思った。言葉にするほどのことでもないけれど、この瞬間のためにここまで来た気がした。
子どもたちは食べ終わると早々に眠くなって、次女はテントの入り口でうとうとしはじめた。座ったまま首がかくんと落ちて、また戻って、また落ちる。夫と目が合って、二人でこっそり笑った。
夜が深まると、焚き火の音だけが残る。パチパチという乾いた音と、遠くの木が風に揺れる音。星は思ったよりもずっと多くて、見上げると首が痛くなるくらいだった。子どもたちが大きくなったとき、この夜のことを覚えているだろうか。覚えていなくても、きっと何かが残る。
キャンプの料理は、完璧じゃなくていい。醤油がなくてもなんとかなるし、焦げた部分だって愛嬌になる。家族で囲む焚き火の前では、少しくらいのズレが、むしろ記憶に残るものになったりする。
明日の朝は、パンケーキを焼こうと思っている。フライパンの火加減を誰かが失敗して、また笑うことになるだろう。それでいい。そういう料理が、家族の時間をつくっていく。

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