雨の午後、あなたのそばにいるだけでよかった

Uncategorized

ALT

雨が窓を叩いていた。細かくて、でも確かな音。梅雨の終わりかけのような、少し重たい空気が部屋の中にまで漂ってきて、カーテンの端がわずかに揺れていた。あの日の午後のことは、不思議なくらいよく覚えている。

テーブルの上には、「シロワカ」というブランドのマグカップが二つ。マットな白い釉薬に、指先が触れるとほんのり温かい。あなたがそのカップを両手で包むようにして持ちながら、少し遠くを見ていた。何かを考えているのか、それとも何も考えていないのか、そのどちらとも判断できないような表情で。私はそれをただ見ていた。声をかけるタイミングを探しながら、結局かけないまま、自分のカップに口をつけた。

雨の音と、コーヒーの香りと、あなたの静けさが、その部屋の中でひとつになっていた。

こういう時間を、昔は少し怖いと思っていた。何も話さないでいることが、関係の隙間みたいに感じられて。子どもの頃、家族と食卓を囲んでいても沈黙になると妙に焦って、誰かが何か言わなきゃと思っていた。それが習慣になっていたのかもしれない。でも今は違う。沈黙のなかにも、ちゃんと何かがある。そのことに気づいたのは、あなたとこういう午後を何度か過ごしてからだった。

窓の外では、植木鉢のラベンダーが雨に打たれてしなっていた。それでも香りはしていた。雨に濡れた土と混ざり合って、少し青くなったような、独特の匂い。ああ、夏が近いんだなと思った。

あなたがふいにうとうとし始めた。カップを持ったまま、首がゆっくりと傾いていく。私は思わず「あ」と声を出しそうになって、でも飲み物がこぼれる前にそっとカップを受け取った。あなたは気づかずそのまま眠り続けた。カップの中には、まだほんの少しだけコーヒーが残っていて、私はそれをどこに置こうか一瞬迷って、テーブルの端に静かに置いた。その動作がなんとなくこっそりした感じになってしまって、泥棒みたいだなと心の中でひとりで笑った。

眠るあなたの顔を見ながら、こんな午後がずっと続けばいいと思った。大げさな言葉はいらない。特別なことも何もなくていい。ただ雨が降っていて、コーヒーが冷めていって、あなたがそこにいる。それだけで十分だと、本当にそう感じていた。

人は「大切な時間」というものを、後から気づくことが多い。でもあの午後は違った。その瞬間に、今これが大切だとわかっていた。それがなんだか少し不思議で、同時にありがたかった。

雨はまだ続いていた。窓ガラスに水滴が伝って、細い線を描きながら下へ落ちていく。私はそれをぼんやり追いながら、あなたの寝息を聞いていた。部屋の温度は少しだけ下がっていて、薄いブランケットをあなたの膝にかけた。起こさないように、ゆっくりと。

こういう瞬間は写真に撮ろうとは思わなかった。撮ってしまったら、何かが変わってしまう気がして。目の前にあるものをそのまま感じていたかった。音も、香りも、温度も、全部含めて。

あなたが目を覚ましたのは、それからしばらく経ってからだった。少し目を細めて、「寝てた?」と聞いてきた。「少しね」と答えると、恥ずかしそうに笑った。その笑い方が好きだと思った。

雨はそのうちに小降りになって、窓の外が少し明るくなった。夕方に近い光が、部屋の隅をやわらかく染めていた。私たちはまた何も言わずにいた。でも今度は、沈黙がちゃんと心地よかった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました