家族でつくる、火のそばの料理――キャンプの夜に教わったこと

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秋の終わりが近づくころ、空気がふいに冷たくなる日がある。そういう日に限って、夫が「キャンプ行こう」と言い出す。今年もそうだった。

長野県の山あいにある「カワセミの森キャンプ場」。予約したのは夫で、下調べも夫で、荷物の仕分けもほぼ夫だった。私がしたのは、料理の計画だけだ。それだけは譲れなかった。

子どもたちは7歳と4歳。上の子はもうテントの設営を手伝えるようになったけれど、下の子はまだ「お手伝い」と「邪魔」の中間あたりをうろうろしている。それでもキャンプに来るたびに、家ではけっして見せない顔をする。土を触って、虫を見つけて、火を見て、目が丸くなる。その顔を見たくて、また来てしまう。

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と、どこかの記事で読んだ。キャンプ料理はまさにそれだと思う。火を起こして、鍋をかけて、煙の匂いをまとって食べる。その一連の行為に、なんとも言えない手応えがある。

夕方5時を過ぎると、あたりが急速に暗くなった。標高が高いせいか、日が落ちるのが早い。焚き火台に薪を組んで、夫がライターで火をつける。最初の一本がなかなか燃えなくて、彼は三回ほどしゃがんでは立ち上がり、また屈んだ。その繰り返しがなんとなくおかしくて、心の中で「それ、去年も同じことしてたよ」とひそかに思った。

火が安定してきたころ、私はダッチオーブンを取り出した。今回の料理のメインは、丸鶏のローストだ。子どものころ、祖母が正月に作ってくれたものを思い出しながら、ローズマリーとにんにくを詰めた。あのころは料理の意味なんてわからなかった。ただ、台所から漂ってくる香りが好きだった。脂と香草が混ざり合った、あの独特の温かい匂い。今、まったく同じ匂いがキャンプ場に広がっている。

ダッチオーブンの蓋を閉めて、炭の上に置く。じっと待つ時間が始まる。家族でキャンプをするとき、この「待つ」という行為が案外豊かだと気づいた。スマホを見る理由がなくなる。ただ火を見て、子どもたちが走り回るのを目で追って、夫と他愛のない話をする。

4歳の次女が、どこかで拾ってきた松ぼっくりを私のひざに置いた。「これ、入れて」と言う。ダッチオーブンに、という意味らしい。「それは食べられないよ」と言うと、「なんで?」と聞く。なんでだろう、と一瞬本気で考えた。

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という話もあるけれど、キャンプの料理はその対極にある。時間をかけて、その場で作る。効率とは無縁の、手間そのものを楽しむ行為だ。

40分ほどして蓋を開けると、湯気が一気に立ち上った。鶏の皮はきつね色に焼けていて、脂がじゅわりと音を立てている。7歳の長男が「うわ」と声を上げた。その一言で、全部報われた気がした。

家族4人、折り畳みのテーブルを囲んで食べた。プラスチックのお皿に、少し不格好に盛り付けた料理。でも誰も文句を言わない。風が吹くたびに焚き火の煙が流れてきて、目が染みる。それでも箸が止まらない。

夜が深まると、気温は一桁台まで下がった。子どもたちはシュラフにくるまって、いつのまにか眠っていた。夫と二人、残った焚き火のそばで缶ビールを開ける。炎が小さくなるにつれて、静けさが増していく。

料理って、作ることだけじゃないのかもしれない。食べる場所、一緒にいる人、その日の空気。全部がひとつになって、はじめて「食事」になる。キャンプに来るたびに、そういうことを思う。家族でいる時間が、こんなふうに形になっていく。

来年もまた、ここに来よう。次は次女にも、松ぼっくり以外の何かを手伝ってもらいながら。

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