静かな夜に二人でつくる料理が、言葉よりも深く伝えるもの

Uncategorized

ALT

夏の終わりに近い八月の夜は、どこか独特のにおいがする。熱気がまだ舗道に残っていて、それでも窓を開けると微かに涼しい風が入ってくる。そんな夜に、二人で台所に立つことがある。特別な記念日でもなく、どこかに出かける予定があったわけでもない。ただ、「今夜は家で食べようか」という、それだけの言葉から始まった静かな夜の料理だ。

玉ねぎを切り始めると、すぐに目が滲んでくる。彼女はそれを横目で見ながら、小さく笑った。「泣いてるの?」と聞いてくる。違う、と答えながらも、なんとなく照れくさくて顔を背けた。玉ねぎのせいだとわかっているのに、なぜかそのやりとりが妙に温かかった。

フライパンにバターを落とすと、じゅわっという音が台所に広がる。それだけで、なんとなく今夜がうまくいく気がしてくるから不思議だ。香りというのは記憶に直接触れる。バターの溶ける甘い匂いをかぐと、子どもの頃に母が作ってくれたクリームシチューのことをいつも思い出す。あの頃は土鍋で作っていて、フタの隙間から湯気が漏れていた。食卓の電球が黄色くて、外はもう暗くて、それでもなぜか怖くなかった。あの安心感に、今もどこかで触れようとしているのかもしれない。

二人でつくる料理は、どうしても会話が増える。「塩、もう少し入れる?」「それ、もう火通ってるんじゃないかな」。そういう些細なやりとりが積み重なって、気づけば一時間が過ぎている。どちらかが先にエプロンを外して、テーブルを拭き始める。そのふとした仕草が、なんとも言えず好きだ。料理を作ることよりも、そういう無意識の動作の中に、二人の関係の本質みたいなものが宿っている気がする。

今夜のメニューは、厚揚げと空心菜の炒め物と、冷製スープ。食材の組み合わせとしては地味かもしれないが、これが最近のお気に入りだ。空心菜は茎のシャキシャキした食感が心地よく、炒めてもかさが減りにくい。厚揚げはしっかり焼き目をつけると、外はカリッと中はふんわりして、それだけでごちそうになる。冷製スープは、架空のハーブブランド「ヴェルデ・ノッテ」のドライハーブミックスを少し加えると、一気に深みが出る。友人に教えてもらってから、冷蔵庫の引き出しに常備するようになった。

料理が完成してテーブルに並べると、部屋の空気が少しだけ変わる。照明を少し落として、グラスに冷えた白ワインを注ぐ。グラスの外側に水滴がつくくらいよく冷えていて、指先がひやりとする。窓の外ではまだ虫が鳴いていた。夏の終わりの虫の声は、秋の入り口の声でもある。

「おいしい」と彼女が言う。それだけで、なんか報われる感じがした。大げさではなく、本当にそれだけで十分だった。二人でいる静かな夜に、言葉はそんなにたくさんいらない。料理の温度と、グラスの冷たさと、虫の声と、彼女のひとこと。それだけで、今夜という夜はちゃんと完成する。

こういう夜を、もっと大切にしていいと最近思う。外食も好きだし、賑やかな場所も嫌いじゃない。でも、静かな夜に二人で台所に立って、何でもない料理を一緒につくる時間には、どこにも替えられない何かがある。それが何なのかをうまく言葉にできないまま、今夜も玉ねぎを切りながら目を滲ませている。

コメント

タイトルとURLをコピーしました