家族キャンプで生まれる、一番おいしい料理の話

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七月の夕方、日が山の稜線に触れはじめた頃、私たちは「ツルギ高原キャンプフィールド」のサイトに着いた。標高が高いせいか、平地より三度は涼しい。子どもたちが車から飛び出すより先に、夫がテントのポールを広げている。その手際の良さに毎回感心しながら、私はクーラーボックスを開けた。

キャンプの料理は、家の台所とはまるで違う。包丁を置く場所もまな板を固定する場所もない。でも、それがいい。むしろ、その不自由さの中にこそ、料理の本質みたいなものが宿っている気がする。

今夜のメニューは、豚バラと夏野菜のダッチオーブン蒸し焼きだ。前日に下味をつけて冷凍しておいたもので、
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でもある。ジップロックごとクーラーボックスに入れてきたそれは、夕方になってちょうどいい具合に半解凍になっていた。ズッキーニ、パプリカ、玉ねぎ。スーパーで選んだ色とりどりの野菜を、ざくざくと大きめに切る。まな板の上でナイフを動かすたびに、野菜の青い香りが鼻をかすめた。

焚き火に火がつくと、空気の質が変わる。乾いた木が弾ける音、ぱちぱちという小さな爆発の連続。煙が低く漂い、それが衣服に染み込んでいくのを、子どもたちは気にも留めない。次男の颯太は薪を一本ずつ丁寧に並べながら、「これが一番大事なやつ」と言って真剣な顔をしていた。七歳なりの流儀がそこにある。

ダッチオーブンを火にかけると、蓋の隙間からじわじわと蒸気が漏れ出してきた。豚の脂が野菜の水分と混ざり合い、やがてその香りがサイト全体に広がりはじめる。隣のサイトのご家族がちらりとこちらを見た気がした。たぶん気のせいではない。

私がこういう料理が好きになったのは、子どもの頃に祖父が庭でやっていた焼き魚の記憶からかもしれない。七輪に炭を起こして、秋刀魚をのせて、ただそれだけのことが、なぜかひどく特別に見えた。外で火を使って食べるということの、あの非日常感。キャンプを始めてから、その記憶がよく蘇る。

長女の莉子は、テーブルの端に腰かけて文庫本を読んでいた。ページをめくる手が、ふと止まる。鼻をひくひくさせて、「もうすぐ食べられる?」と聞いてくる。その問いかけが、料理をしている側にとっては最高の褒め言葉だ。

蓋を開けると、湯気がもわっと立ち上がった。豚バラは柔らかく崩れ、野菜はそれぞれの色を保ったまましっとりと仕上がっている。塩と黒胡椒、それからほんの少しのバルサミコ酢。シンプルなのに、外で食べるとなぜかこんなにおいしいのか。家族全員が少し黙って、最初の一口に集中していた。その静けさが好きだ。

ちなみに、夫は「仕上げにバターを入れよう」と言って、タイミングを完全に間違えた。蓋を閉め直した後に思い出したらしく、もう一度蓋を開けてバターをひとかけら落としたのだが、それはほぼ溶けずに野菜の上に乗ったまま食卓に出てきた。白くて四角いそれを見た颯太が「なんかのっかってる」と言い、莉子が「パパのバター」と命名した。家族の料理には、こういう小さな失敗も含まれている。

夜が深くなるにつれて、気温はさらに下がった。焚き火の前に四人で並んで、残ったスープをマグカップに注いで飲んだ。手のひらに伝わるカップの熱さ、空を見上げると星がある。都市では絶対に見えない数の星が、ここにはある。

キャンプの料理は、完成度より過程が大切なのかもしれない。うまくいかなくてもいい。多少焦げても、味付けが濃くても、それも含めて家族の記憶になる。来年もまたここに来ようと、誰かが言った。誰が言ったかは、もう覚えていない。たぶん、颯太だったと思う。

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