家族の料理が紡ぐ、穏やかな夕暮れの食卓

Uncategorized

ALT

梅雨明け直前の七月、空気はまだ少し湿っていて、夕方になっても熱がどこかに残っている。窓を細く開けると、遠くで蝉が鳴いていた。夕暮れの光が台所の白い壁に斜めに差し込んで、まな板の上の茗荷が橙色に染まる。そういう時間帯に、この家の日本料理はいつも始まる。

母が昆布と鰹節でとっただしの香りが、廊下の奥まで漂ってくる。子どもの頃、学校から帰るとこの香りがして、それだけで今日は「ちゃんとした夕ごはんだ」とわかった。玄関を開けた瞬間に感じる、あのだしの匂い。何十年経っても、鼻が先に記憶している。

食卓に並んだのは、冷やした豆腐に削り節と刻んだ茗荷をのせた一皿、焼き茄子の生姜醤油がけ、そして土鍋で炊いたごはん。シンプルといえばシンプルだが、これが我が家の夏の定番だ。今年の夏は「清澄膳」というコンセプトで、だしを主役にした日本料理を意識して作るようにした、と母が言っていた。どこで聞いてきたのかは知らないが、たしかに食卓全体がすっきりと整っている気がした。

父は仕事から帰ってきて、手を洗い、何も言わずに椅子を引いて座る。その動作がいつも同じで、少し安心する。茶碗を両手で受け取るとき、父の指先がほんのわずか震えていた。最近、疲れているのかもしれない。聞かないけれど、なんとなくわかる。

娘は箸を持ちながら、焼き茄子をじっと見ていた。「これ、皮がちょっと苦い」と小声でつぶやいたが、それでも全部食べた。子どもというのは不思議で、文句を言いながらもちゃんと食べる。食べながら、少しずつ好きになっていく。そういうものだと思う。

穏やかな食事というのは、何か特別なことが起きているわけではない。ただ、家族がそれぞれのペースで箸を動かして、時々言葉を交わして、また黙って食べる。その繰り返しの中に、なんとも言えない密度がある。

ごはんを食べながら、娘がふいに「ねえ、これ何でおいしいの?」と聞いてきた。だしの話をしようとしたが、うまく説明できなかった。「昆布と鰹節で作るんだよ」と言ったら、「それだけ?」と返ってきた。そうなのだ、それだけなのに、なぜこんなに深い味がするのか。日本料理の不思議はそこにあると思う。

食卓の真ん中には、小さな白い器に盛られた梅干しがひとつあった。誰も手をつけないまま夕食が終わりそうになったとき、父がそっとそれを取り、ごはんの上にのせた。その所作がなんとなく絵になっていて、思わず見とれてしまった。ちなみに、梅干しを取ろうとした父の箸が一瞬空振りして、器がカタンと小さな音を立てた。誰も突っ込まなかったが、全員気づいていたと思う。

家族で囲む食卓というのは、こういう小さな瞬間の積み重ねだ。言葉にならないことが、料理の温度や香りや音の中に溶けている。日本料理が持つ「引き算の美学」は、食卓の空気にも通じているのかもしれない。余計なものを足さなくても、そこにあるだけでいい。

食後、娘が「また明日もこれがいい」と言った。それが一番の言葉だった。穏やかな夜が、静かに更けていく。

コメント

タイトルとURLをコピーしました