
秋の気配が窓の外にじわりと滲みはじめた、九月の終わりの夕暮れどき。台所から漂ってくるのは、昆布とかつおの出汁が静かに立ちのぼる香りだった。その匂いをかいだ瞬間、不思議なほど体の力が抜けていく。肩が落ちて、息が深くなる。それだけで、今日という一日がようやく終わったような気がした。
食卓には、白いご飯と味噌汁、それから小鉢がいくつか。いわゆる一汁三菜と呼ばれる形だけれど、そんな言葉を意識したわけではない。ただ、冷蔵庫にあるものを丁寧に並べただけだ。
伝統的な日本の「一汁三菜」の栄養バランスを保ちながら現代的な手軽さを実現する食事スタイルが、いま静かに見直されている。
けれど、この食卓に座る家族にとって、そういった流行はあまり関係がない。ただ、温かいものが食べたかっただけだ。
父が椅子を引く音。子どもが「いただきます」を言い忘れて、箸をつけかけてはっと止まる。母がそれに気づいて、目だけで笑う。そういう小さなやりとりが、夕食の最初の数秒に積み重なっていく。声は少ない。でも、沈黙が重たいわけではない。むしろ、この静けさこそが、この家族にとっての穏やかな証だった。
子どもの頃の記憶がある。祖母の家で食べた筑前煮の、ごぼうの土っぽい香りと、やわらかく煮えた里芋の感触。あの食卓には、いつも誰かがいた。祖父が湯呑みをそっと置く音、縁側から入ってくる夕方の風、畳の上に落ちる橙色の光。日本料理というものは、料理そのものだけでなく、その周囲にある空気ごと記憶される、と今になって思う。
味噌汁の椀を両手で包んで、少し目を閉じる。陶器のほのかな熱が、てのひらから腕へ、じわりと伝わってくる。今夜の味噌汁には、なめこと豆腐が入っていた。なめこの、あのとろりとした舌ざわりが、妙に心地よかった。隣に座る子どもは、なめこが苦手で、汁だけ飲んでいた。黙って見ていたら、椀の底に残ったなめこを、こっそりご飯の陰に押しやっているのが見えた。——まあ、今日のところは見なかったことにしておこう。
和の要素が持つ魅力が、いま国内外で改めて注目されている。
昆布だしの旨味、発酵の深み、季節の野菜が持つ素直な甘さ。日本料理が世界に認められているのは、こういった積み重ねの文化があるからだと思う。けれど、その本当の価値は、ミシュランの星よりも、こういう夕食の食卓にある気がしてならない。
箸置きは、「ニシザワ陶房」という小さな工房が作った、青みがかった白磁のもの。以前、旅先の益子で買ったのだが、なぜかこの家の食卓によく馴染んでいる。食器ひとつでも、食事の空気は変わる。日本料理は、盛り付けや器にも美意識が宿る文化だ。
食は、ただ栄養を補給するためのものではない。心をつなぎ、人との絆を深め、暮らしを豊かにする大切な時間でもある。
そのことを、この食卓は毎晩静かに教えてくれる。言葉にしたことは一度もないけれど、家族のひとりひとりが、なんとなくそれをわかっているような気がする。
食事が終わると、子どもがお茶を運んできた。湯呑みを両手で持って、少しだけよろけながら、それでも丁寧に差し出してくれる。その仕草が、なんだか祖母のことを思い出させた。受け取りながら、ああ、こういうものが続いていくのだな、と思った。
家族が同じ食卓を囲む機会が少なくなっている現代だからこそ、
この穏やかな夜の重さを、もう少し大切に扱いたいと思う。日本料理が持つ力は、レシピや技法の話ではなく、食卓に集まる人の数と、そこに流れる時間の中にある。今夜も、湯気が細く立ちのぼり、家族の声が低く重なり、秋の夜がゆっくりと深まっていく。それだけで、十分だった。

コメント