家族と囲む日本料理の食卓――穏やかな夜が、いちばん贅沢だと気づいた話

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夕暮れが少し早くなってきた、八月の終わりのことだった。窓から差し込む光がオレンジ色に傾いて、台所の白い壁をやわらかく染めていた。その日わたしは、炊きたてのご飯と、だしの香りが立ちのぼる味噌汁と、ほんの少しの副菜を並べながら、ふと思った。日本料理って、こんなにも静かで、こんなにも正直な食べ物だったか、と。

夫が仕事から戻り、子どもたちが手を洗って席につく。その一連の動作が、ほとんど言葉なしに流れていく。椅子を引く音、箸を置く小さな音、それだけが台所に響く。誰かが「いただきます」と言って、全員がそれに続く。その瞬間だけは、家族全員の時間がぴたりと重なる気がして、わたしは毎回、少し胸のあたりがあたたかくなる。

その夜の献立は、鯛のあら炊き、冷やしたぬか漬けのきゅうり、炊き込みご飯、それから豆腐と油揚げの味噌汁。一汁三菜という言葉があるけれど、日本料理の基本ってやっぱりここに戻ってくる。派手さはない。けれどその地味さの中に、素材そのものの味がきちんと生きている。鯛の皮のあたりに染みた甘辛い煮汁を、子どもが「これすき」と言いながらご飯にのせていた。それだけで、今日も作ってよかったと思う。

思えば、わたしが日本料理に向き合うようになったのは、もう少し前のことだ。子どもの頃、祖母の家に行くと必ず台所から昆布とかつおのだしの香りがしていた。あの香りは、家そのものの匂いだった。祖母は無口な人で、料理中はほとんど喋らなかった。でも食卓に並ぶものは、いつも丁寧で、温かかった。あのだしの記憶が、今のわたしの料理の基準になっているのかもしれない。

最近、「和味」という言葉をよく見かけるようになった。昆布やみそ、醤油といった日本の発酵調味料を軸にした料理が、改めて注目されているらしい。健康志向の高まりとともに、家庭の食卓にも丁寧なだしを取る文化が戻りつつある。わたしにとっては特別なことではなく、ずっとそうしてきたのだけれど、それが「トレンド」と呼ばれるようになったのは、少し不思議な感覚でもある。

話は少しそれるが、その夜、炊き込みご飯を炊くとき、うっかり昆布を入れたまま炊飯してしまった。取り出し忘れたのだ。食べてみると、昆布のうまみがご飯全体にじわっと行き渡っていて、むしろいつもより美味しかった。家族には黙っておいた(心の中で「ミスが正解だった」と静かにガッツポーズをしていた)。

夕食が終わって、子どもたちが食器を運ぶ。夫がお茶を淹れる。「ほうじ茶でいい?」と聞きながら、すでにやかんに手をかけていた。聞いてから動く、ではなく、動きながら聞く。その小さな仕草が、長く一緒に暮らしてきた家族の、言葉にならない気遣いのように思えた。

穏やかな夜というのは、特別なことが何もない夜のことだ。誰かが笑って、誰かがお茶を飲んで、食卓の上が少しずつ片付いていく。「穏やか」という言葉は、ともすると退屈の言い換えのように聞こえるかもしれない。でもわたしには、この静けさが一番の贅沢に感じられる。

架空の話のようだけれど、以前「シズカノヤ」という名の小さな器の店で買った白磁の茶碗がある。縁が薄く、手に持つとひんやりとした重さがある。その茶碗でご飯を食べると、なぜかいつもより丁寧に食べている自分に気づく。器が食事の空気を変える、というのは本当のことだと思う。

日本料理の食卓は、ごちそうでなくていい。家族が顔を揃えて、同じものを食べる。それだけのことが、毎日の暮らしの中でどれほど大切か。派手なレシピも、映えるプレートも、今夜はいらない。ただ、湯気の立つ味噌汁と、炊きたてのご飯と、家族の声があれば、それで十分だ。

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