
五月の終わり、空気がまだ少しひんやりしていた朝のことだ。テントのファスナーを開けると、山の稜線がうっすら白みがかっていて、足元の草が夜露に濡れていた。長野県の北部、「奥霧ノ原キャンプ場」。初めて訪れたその場所は、木々の間から差し込む光が柔らかく、まるで世界がまだ眠っているようだった。
キャンプに来るたびに思うのだが、料理というものは、場所と人が変わるだけでまるで別物になる。同じカレーでも、家のコンロで作るものとは違う。ダッチオーブンの重い蓋を開けた瞬間に立ち上がる湯気、スパイスと肉の脂が混ざり合った香り——あれは、アウトドアでしか嗅げない種類のにおいだと思っている。
今回の家族キャンプには、妻と小学三年生の娘、そして六歳の息子を連れてきた。子どもたちは前夜から興奮していて、息子に至っては「カレーにチョコ入れたい」と言い張っていた。入れさせてあげた。意外と悪くなかった、というのはここだけの話にしておく。
朝食の準備は娘が手伝ってくれた。ホットサンドメーカーを両手で持って、「重い」と言いながらも離さない。チーズがとろけて端からはみ出したのを見て、「あ、失敗した」と小さく呟いた。でも食べたら「おいしい」と言った。失敗と成功の境界線が、キャンプではどこか曖昧になる。それがいい。
2026年の食のトレンドは「正解は一つじゃない、自由で楽しい食の新スタンダード」とも言われている。
キャンプの料理はまさにそれだと感じた。レシピ通りでなくていい。火加減が少しずれても、誰かが笑っていれば、それで十分だ。
昼になると日差しが強くなり、木陰がありがたくなってきた。鉄板の上に並べた豚肉が、ジュウジュウと音を立てながら縮んでいく。その音を聞くだけで、なぜか食欲が増す。子どもたちはすでにお腹を空かせていて、「まだ?」「まだ?」と五分に一度聞いてくる。父親というのは、キャンプ場では料理人と審判を兼務しなければならない。
思い返せば、自分が子どもの頃、父が焚き火の前でスキレットを傾けていた光景がある。あの時はただ眺めていただけだったけれど、今になってみると、父がどれだけ火の加減に気を使っていたか、少しわかる気がする。料理というのは、作る人の時間と集中が、食べる人の記憶に変わっていくものなのかもしれない。
夕方、日が山の向こうに沈みかけたころ、妻がアウトドアブランド「ソルトフィールド」のステンレスカップに、ハーブティーを注いで持ってきてくれた。両手で受け取ると、じんわりと温かかった。カモミールの香りが、焚き火の煙とほんの少し混ざった。不思議な組み合わせだったが、悪くなかった。むしろ、その場所にしかない香りだった。
家族でキャンプをすることの良さは、料理そのものだけにあるわけじゃない。誰かが食材を切り、誰かが火を起こし、誰かが「もうちょっと待って」と言いながら鍋をかき混ぜる。その一連の時間が、家族の間に何か柔らかいものを作っていく。言葉にするのが難しいけれど、確かにそこにある。
なにげない料理もアウトドアで大好きな人たちといっしょに食べると、よりおいしく感じられる
というのは本当だと思う。それは気のせいでも錯覚でもなく、場所と人と時間が重なって生まれる、本物の味だ。
夜、焚き火の前で子どもたちが眠りかけていた。息子が膝の上でうとうとしながら、それでも手だけはマシュマロの棒を握っていた。火に近づけすぎて、マシュマロが真っ黒に焦げた。でも彼は気にしなかった。「こげたのが好き」と言って、そのまま食べた。
キャンプの料理は、完璧じゃなくていい。焦げても、塩が多くても、チョコが入っていても。家族と一緒に作って、外の空気の中で食べる。それだけで、十分すぎるほど美味しい。

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