
四月の夕方、窓の外はまだ少し明るかった。空の端がオレンジから紫へと静かに変わっていく、あの曖昧な時間帯。誰かが「今夜、うちで韓国料理にしよう」と送ってきたのは、たしか午後三時ごろだったと思う。
テーブルの上には、準備を始めたばかりのコチュジャンのビン、ごま油の小瓶、それからさっき買ってきたばかりの豚バラ肉が並んでいた。冷蔵庫を開けるたびに冷気がふわっと顔に当たって、その感触が妙に気持ちよかった。春とはいえ、日が落ちると空気はまだひんやりしている。
友人たちが集まりはじめたのは、六時を少し過ぎたころ。玄関を開けるたびに外の夜気が流れ込んできて、それと一緒にみんなの笑い声も入ってきた。ワイワイガヤガヤという言葉がそのまま部屋の中に具現化したような空気になった。誰かがコートを脱ぎながら「いい匂いがする」と言った。鉄板の上でサムギョプサルが焼けはじめていたのだ。
肉が焼ける音は、ジュウジュウというより、もう少し低くて柔らかい音だった。脂が鉄板に落ちるたびに白い煙がゆらりと立ち上がって、ごま油とキムチの香りが混ざり合って部屋中に広がっていく。子どもの頃、母が台所で何かを炒めていると、その匂いだけで「今日はごちそうだ」とわかった。あの感覚に、少し似ていた。
ナッコプセ(タコ・ホルモン・えびのピリ辛鍋)も今夜のテーブルに並んだ。海鮮とホルモンの旨みが特製ダレの中で絡み合い、最後のしめにラーメンを入れるのがまた格別だ。
ちょっと辛い、というのが正確な表現で、辛すぎず、でも確かに舌の奥にじんわりと熱が広がる。その「ちょっと辛い」が、なぜかやみつきになる。
隣に座っていたユナが、トングで肉をひっくり返しながら「これ、もう食べごろじゃない?」と聞いてきた。その横顔が鉄板の光でほんのり赤く見えて、なんだか映画のワンシーンみたいだった。マッコリを注ごうとして、うっかり自分のグラスに二杯分入れてしまったのは私だ。誰も気づいていなかったと思いたいが、向かいのミカにはしっかり見られていた。目が合って、二人で少し笑った。
K-POPや韓国ドラマの人気に支えられ、韓国料理はいまや一時的なブームを超えて、日本の食文化に深く浸透している。
そのことを頭で理解していても、実際にこうして友人たちと囲む食卓の上にサムギョプサルやキムチチゲが並ぶ光景は、なんだか不思議と自然だ。「韓国料理って、集まって食べるのが一番おいしいよね」と誰かが言って、それに全員がうなずいた。
カルグクスも今、韓国でトレンドの料理として注目されている。現代的な専門店が増え、麺にこだわったり、従来にない具を開拓したりと、洗練と再解釈が進んでいる。
今夜は作らなかったけれど、次に集まるときには試してみようという話になった。「進化系カルグクス、なんか響くよね」とユナが言い、「それ、お店の名前みたい」とミカが返した。
食卓の上には、架空の名前をつけたくなるような瞬間がある。「ソウルナイトテーブル」――そんな名前のインテリアブランドがあったとしたら、きっとこういう夜の雰囲気をコンセプトにするだろうと思った。鉄板の温もり、マッコリの白さ、みんなの声が重なる感じ。
夜が深くなるにつれて、話題はあちこちに飛んだ。仕事のこと、最近観たドラマのこと、来月の旅行の計画。でも会話の中心にはいつも、テーブルの上の料理があった。誰かが何かをよそって、誰かが「おいしい」と言って、また別の誰かが笑う。その繰り返しが、気づけば二時間以上続いていた。
韓国料理には、人を集める力があると思う。ひとりで食べるより、みんなで囲んだ方が何倍もおいしくなる料理が多い。鍋を分け合い、肉を焼きながら話して、ちょっと辛いスープを「辛い辛い」と言いながらもおかわりする。そういう食卓の時間が、日常の中でいちばん豊かな時間かもしれない。
窓の外はすっかり夜になっていた。テーブルの上には空になった器と、まだ少し残ったマッコリ。誰かが「また来月もやろう」と言った。全員が、即座にうなずいた。

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