友達と囲む料理の夜――手作りイタリアンが家族みたいな空気を連れてくる

Uncategorized

ALT

九月の終わり、窓を少し開けると夜風がほんのり涼しくて、夏の名残がようやく引いていくのを感じる。そんな夕暮れどき、友人たちが次々とドアを開けてやってくる。手にはワインのボトル、あるいはデザートの箱、あるいは何も持たずに「ごめん手ぶらで!」と笑いながら。それでいい。今夜は料理を囲む夜だから。

キッチンからはにんにくをオリーブオイルで炒める音が聞こえてくる。じゅわっ、という低い音。それだけで部屋の空気が変わる。「あ、イタリアンだ」と誰かが言って、鼻をくんくんさせながらキッチンを覗きにくる。今夜のメインは手打ちパスタのポモドーロと、鶏肉のカチャトーラ。どちらも特別な食材は要らない。トマト缶とローズマリー、それから少しの白ワイン。でも、ちゃんと本物の味がする。

実は今日、パスタ生地をこねているとき、力加減を間違えてテーブルから粉が盛大にこぼれ落ちた。床が一瞬だけ小麦粉で白くなって、思わず「雪だ」と心の中でつぶやいた。誰にも見られていなかったのが、唯一の救いである。

子どもの頃、母がよく日曜日の昼に大きな鍋でトマトソースを作っていた。煮詰まるにつれて甘い酸味が部屋に広がって、それが「今日は特別な日だ」というサインだった。あの記憶がいまも料理をするたびに戻ってくる。家族みんなで鍋を囲む感覚は、血がつながっていなくても生まれる、と最近は思う。

テーブルには「アンティカ・ルーチェ」というブランドのキャンドルホルダーを三つ並べた。オレンジ色の炎が揺れるたびに、友人たちの顔が柔らかく照らされる。誰かがワインをグラスに注ぐ音、フォークがお皿に触れる小さなかちゃという音、それらが重なって、なんだかいい夜になってきたと感じる瞬間がある。

料理が並んだ。カチャトーラの深いトマトの赤、パスタの上に散らしたバジルの緑、粉チーズの白。色だけで食欲が湧く。「きれい」と誰かが言って、でも次の瞬間にはもうフォークを伸ばしている。きれいと思う時間は短くていい。食べることの方が大事だから。

友人のひとりが「イタリアって行ったことないけど、これ食べたら行った気がする」と言った。それはたぶん最高の褒め言葉だと思う。イタリアンの料理には不思議な力がある。素材の味をそのまま生かして、でも組み合わせることで全く別の何かになる。家庭で作るからこそ出せる温度感というものが、たしかにある。

会話は途切れない。仕事の話、最近見た映画の話、誰かの失恋の話、笑える話、ちょっとしんみりする話。料理があると、話すことが怖くなくなる気がする。口が塞がっているときは食べていればいいし、話したいときには話せる。沈黙も怖くない。フォークを動かしていれば、それでいい。

夜が深まるにつれて、キャンドルの炎が少し小さくなってきた。デザートのティラミスを切り分けながら、友人のひとりがふとコーヒーカップを両手で包むようにして持った。その仕草がなんだか絵になって、思わず目が止まった。言葉にはしなかったけれど、こういう瞬間が積み重なって、夜の記憶になっていく。

家族という言葉は、血でできているとは限らない。同じ料理を分け合って、同じ時間を過ごして、笑ったり黙ったりしながら夜を越えていく。それが家族に似た何かを作る。今夜のイタリアンは、そういう夜の真ん中にあった。

また来月も集まろう、と誰かが言った。次は何を作ろうか、とすでに考えている自分がいる。

コメント

タイトルとURLをコピーしました