
秋が深まるにつれて、空気が少しずつ乾いてくる。10月の連休、私たちは長野県の山あいにある「ミズナラの森キャンプ場」へと向かった。標高1,000メートルを超えるそこは、朝晩の気温が10度を下回ることもある。それでも家族全員が「行こう」と口をそろえたのは、去年の夏に経験したキャンプの夜があまりにも良すぎたからだ。
荷物を積み込みながら、私はふと子どもの頃のことを思い出していた。父が庭で七輪を出して秋刀魚を焼いていた夕暮れ。煙が目にしみて、でもなぜかそこから離れたくなかった。あの煙の香りと、じりじりと焼ける音の記憶は、今でも胸の奥にある。キャンプの料理には、そういう力がある気がしてならない。
テントを張り終えた頃にはすでに午後3時をまわっていた。木漏れ日が斜めになって、地面に細長い影を落としていた。子どもたちは早くも焚き火台の周りに集まって、「まだ?」「まだ?」と繰り返している。まだだよ、と言いながら私は火起こしに集中した。
この日の夕食は、スパイスをきかせた鶏肉のダッチオーブン煮込みと、野菜たっぷりのスープ。
2026年のトレンドとして、スパイスを使った料理への関心が高まっている
ことを知って、今回はクミンとパプリカ、そして少量のチリを合わせた自家製ブレンドを持参した。キャンプで本格スパイス料理、というのは少し気張りすぎかとも思ったが、やってみると意外にも子どもたちが「辛い!でもおいしい!」と目を輝かせた。
ダッチオーブンの蓋を開けた瞬間、スパイスと肉汁が混ざった湯気がふわりと立ち上がった。あの香りは言葉にしにくい。甘くて、深くて、少しだけ野性的だ。隣で妻がスープをかき混ぜながら、ちらりとこちらを見て小さくうなずいた。その仕草だけで、うまくいったとわかった。
ただ、正直に言うと一度だけ失敗があった。スパイスを計量スプーンで量っていたとき、チリを入れすぎた。気づいたのは蓋を閉めた後で、「もしかして……かなり辛い?」と内心ひやひやしていた。結果的にはギリギリセーフだったのだが、子どもが最初の一口で「ふぁっ」と小さく声を上げたのを見て、心の中で全力で謝った。
料理が完成する頃には空が完全に暗くなっていて、焚き火だけが光源になっていた。炎が揺れるたびに、家族の顔が橙色に染まっては消える。息子が薪をくべるたびに、パチ、パチ、と乾いた音が響いた。標高のある場所の夜は静かで、その音がやけに遠くまで届く気がした。
「自分のために作る、自分をいたわる料理」へのニーズが高まっている
と言われる時代だけれど、キャンプの料理はその逆を向いている。誰かのために火を起こして、誰かのために鍋をかき混ぜる。家族という単位でしか生まれない、あの独特の空気がある。
食べ終わった後、娘がホットチョコレートを飲みながらうとうとし始めた。膝の上にブランケットをかけて、カップを両手で包んだまま、ゆっくりと目が閉じていく。その小さな寝顔を見ながら、妻と二人でしばらく黙って焚き火を眺めた。言葉がなくても、何かが満ちている感覚があった。
翌朝は霧が出ていた。テントの外に出ると、空気が冷たくて肺の奥まで入ってくる感じがした。ダウンジャケットを着込んで、昨夜の残りスープを温め直した。朝靄の中で食べるスープは、夜とはまた違う味がする。静けさが、料理に混ざり込んでいるみたいだ。
家族でキャンプをすることの良さは、「非日常を共有する」ことだと思っていた。でも今は少し違う気がしている。キャンプの料理を通して、日常では見えにくい互いの顔が見える。火の前に並んで、同じ湯気を浴びて、同じ香りを嗅ぐ。それだけのことが、思いのほか深く記憶に刻まれる。
帰り道、息子が後部座席から「次はどこ行く?」と聞いてきた。まだ高速にも乗っていないのに、もう次の話をしている。そういうものかもしれない。キャンプと料理と家族が重なる時間は、終わった瞬間から、もう次を呼んでいる。

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