家族でキャンプ料理を囲む夜――火と煙と、あの子の笑顔が教えてくれたこと

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秋の夕暮れは、思ったより早く落ちてくる。午後四時を少し過ぎたころ、長野県の山あいにある「シラカバフィールド」というキャンプ場では、木々の間から差し込んでいた西日がすうっと細くなり、空気の温度がひとつ段階を下げたような感覚があった。ダウンジャケットを羽織るほどではないけれど、素肌にはもう少し冷たい。そういう微妙な境界線の時間帯に、私たちは火を起こしていた。

夫が薪を組み、七歳の娘がうちわで風を送る。五歳の息子はといえば、そのうちわを奪おうとして姉ともみ合い、結果的にふたりして転がっていた。まあ、それはいつものことだ。

キャンプを始めたのは三年前のことで、最初のうちは「映える料理を作ろう」という気持ちが強かった。でも今は少し違う。料理そのものの過程が、家族にとってのいちばんの時間になっていると気づいてから、メニューの組み立て方が変わった。手の込んだものより、みんなが手を動かせるものを選ぶようになった。

この日のメインは、スキレットで作るスパイシーなチキンのグリルだ。前日から鶏もも肉を塩麹と自家製のスパイスミックスに漬け込んでおいた。甘みと辛みが重なり合うような香りが、火にかけた瞬間からじわじわと立ち上がってくる。娘が「なんかいいにおい」とつぶやいて、さっきまでの喧嘩をきれいさっぱり忘れた顔で近づいてきた。そういう瞬間が、料理の力だと思う。

思えば子どものころ、祖母がよく言っていた。「においが先に来る料理は、おいしい料理だ」と。台所に立つ背中を眺めながら聞いたその言葉を、今になって実感している。キャンプの火で料理をするとき、その言葉はより鮮明に蘇る。

スキレットから脂が弾ける音、パチパチという薪の声、遠くで鳥が鳴く声。それらが重なって、不思議な静けさを作り出す。静かなのに、賑やかだ。子どもたちの声も混ざって、夕暮れの空気の中に溶けていく。

副菜には、ブロッコリーをざく切りにしてオリーブオイルと塩でシンプルに炒めたものを添えた。今年から指定野菜になったブロッコリーは、スーパーでも手に入りやすくなり、キャンプの食材リストに加えやすくなった。子どもたちもよく食べる。息子に至っては「みどりのやつ、もっとほしい」と言ったので、心の中で小さくガッツポーズをした。野菜を喜んで食べる姿というのは、親にとって地味に嬉しいものだ。

夫がアルミのマグカップにスープをよそって手渡してくれた。その手がほんの少し震えていて、「熱い、熱い」と言いながらも離さずにいる姿が、なんだかおかしかった。受け取った私も同じように「あ、熱っ」と言って、それでも両手で包んだ。手のひらに伝わる温度は、ちゃんと気持ちよかった。

家族でキャンプをしていると、日常では見えにくい表情が見えてくる。スマートフォンの画面ではなく、火の光を見ている子どもたちの横顔。普段は無口な夫が、炭の火加減を調整しながら独り言のようにつぶやく言葉。そういうものが積み重なって、記憶になっていく。

料理は、ただ食べるためだけにあるんじゃないと思う。切って、炒めて、盛り付けて、それを誰かに渡す。その一連の動作の中に、言葉にならないものが宿っている。キャンプという非日常の場では、それがより濃くなる気がする。火の前に立つと、少しだけ正直になれる。

食べ終わったあと、息子がいつの間にか眠っていた。焚き火の前でうとうとしている小さな背中を見ながら、娘が「またキャンプ来たいね」と言った。来たいね、と私も答えた。夫は何も言わなかったけれど、薪をもう一本くべた。それで十分だった。

夜が深まるにつれて、星がひとつ、またひとつと増えていった。煙の香りが服に染みついて、翌朝になっても残っていた。それがなんだか名残惜しくて、すぐには洗濯しなかった。家族で過ごしたキャンプの夜の料理の記憶は、そんなふうにして体の中に残っていく。

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