
四月の終わり、夕方六時をすぎると空がゆっくりと橙に変わっていく。窓から差し込む斜めの光が、テーブルの上に並んだグラスをきらきらと照らして、まるで誰かが意図して飾ったみたいに見えた。でも実際には、誰も何も意識していない。ただ友達がわらわらと集まって、気づいたらそこにパーティが生まれていた、そんな夜だった。
今年の春、わたしは思い切って自宅でイタリアンパーティを開いた。きっかけは些細なことで、近所に住む友人の沙也加が「最近、おうちで本格的なイタリアン作れるって知った?」とメッセージを送ってきたのがはじまりだ。それまでわたしは、イタリアンといえば外食するものだとなんとなく決めつけていた。子どもの頃、母が「パスタはお店で食べるものよ」と言っていたのをなぜか信じ込んでいて、家でパスタをゆでるときはいつも少し後ろめたい気持ちがあった。今思えば、まったく根拠のない思い込みだったけれど。
当日は七人が集まった。家族のように気を遣わない間柄の友人たちで、台所にまで入り込んでくる人もいれば、ソファで勝手に寝そべっている人もいる。そういうごちゃごちゃした感じが、なんとも心地よかった。
料理はわたしと沙也加で分担した。前菜はカプレーゼ。トマトとモッツァレラを交互に並べ、エキストラバージンオリーブオイルをまわしかけ、最後にバジルをちらす。たったそれだけなのに、皿の上に赤と白と緑が並ぶと、なんだか急に「ちゃんとしたパーティ」になった気がして、自分でも少し驚いた。オリーブオイルの青草のような香りがふわりと台所に広がって、その瞬間だけ、ここがイタリアのどこかの家になったような錯覚があった。
メインはトマトソースのパスタ。にんにくをオリーブオイルでじっくり炒めると、香ばしくて甘い匂いがリビングまで流れ込んでいった。友人の健太が「うわ、もうおなかすいた」と言いながらキッチンに顔を出した。パスタをゆでている鍋からもうもうと湯気が上がって、窓ガラスが少しだけ曇る。その温度と湿気が、場をじんわりと温めていくようだった。
ところで、パスタをゆでている最中に小さな事件が起きた。わたしが塩を入れようとして手が滑り、計量スプーンごと鍋の中に落としてしまったのだ。あわてて菜箸で引き上げたが、その一部始終を見ていた沙也加が「それ、隠し味ってことにしよう」と笑った。結果的にパスタはちょうどいい塩加減で、誰も気づかなかった。気づかなかったというより、気にしなかったのかもしれない。
食卓を囲んで、料理が運ばれるたびに歓声が上がった。家族でも友人でも、誰かと一緒に食べるご飯はどうしてこんなにおいしく感じるのだろう。イタリアでは食事の時間を家族や仲間と丁寧に過ごす文化が根づいているという話を、以前どこかで読んだことがある。その感覚が、今夜の食卓にも確かにあった。
ワインは「ヴィラ・ソレッラ」という架空の名前を冗談で付けた自家製のスパークリング……ではなく、近所のワインショップで選んだイタリア産の赤。グラスを傾けながら、誰かが「こういう夜、もっと増やしたいな」とぽつりと言った。誰が言ったかは覚えていない。でもその言葉は、テーブルの上にしばらく漂っていた。
料理って、不思議だ。食材を切って、炒めて、盛り付けるだけなのに、その過程に人が集まって、笑いが生まれて、気づいたら家族みたいな空気になっている。イタリアンには、そういう力があると思う。シンプルな素材をシンプルに調理するからこそ、余白が生まれて、人が入り込める。
夜が深まるにつれて、会話はだんだんとゆっくりになっていった。料理の皿は空になり、ワインのボトルも底をついて、それでも誰も帰ろうとしなかった。窓の外はもう真っ暗で、室内の灯りだけが温かく、七人の影をやわらかく壁に映していた。
また来月もやろう、と誰かが言った。今度は何を作ろうか、とわたしはもう考えはじめていた。

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