静かな夜に二人でつくる料理が、言葉よりも深く伝えるもの

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梅雨が明けきらない七月のはじめ、窓の外はまだ湿った空気をまとっていた。午後九時を少し過ぎたころ、台所に立つ彼の背中を、わたしはダイニングの椅子に腰かけたまま、なんとなく眺めていた。静かな夜だった。虫の声もなく、遠くの幹線道路からかすかに車の音が流れてくるだけで、この部屋の中はほとんど無音に近かった。

鍋の中で何かが煮えている音だけが、ゆっくりと空気を揺らしていた。

彼が作っているのは、葱油拌麺——中国語で読めばツォンヨウバンミェン——だった。最近どこかのブログで見つけたと言って、先週から二度目の挑戦らしい。ごま油と長ねぎを低温でじっくり熱して、香りを油に移す。その工程がどうにも好きだと、彼は言っていた。わたしは料理の詳しい手順は知らないけれど、フライパンから立ちのぼってくる甘くて深い香りだけは、確かに鼻の奥まで届いた。ねぎが焦げる手前の、あの際どい匂い。

子どものころ、祖母の台所でも似たような香りがした気がする。あのころは料理の意味なんて考えたこともなかったけど、今になって思えば、あの香りが「誰かが自分のために火を使っている」という安心感そのものだったのかもしれない。

彼がふと振り返って、「もうちょっとかかる」と言った。それだけだった。わたしは「うん」とだけ返して、また背中を見ていた。二人でいるのに、会話はほとんどない。でも、沈黙が重くないのは、たぶんこの料理の香りのせいだと思う。

テーブルの上には、「ソワレ・ブランシュ」というブランドのキャンドルがひとつだけ灯っていた。インテリア好きの友人に勧められて買ったもので、バニラとシダーウッドを合わせたような香りがする。ただ、この夜はごま油の香りが完全に勝っていた。キャンドルの意味、ほぼゼロだった(本人は気づいていないので、そっとしておく)。

やがて、白い深皿に麺が盛られた。上に刻んだ万能ねぎと、ごく薄く切った生姜が散らされている。醤油ベースのたれが底に溜まっていて、混ぜるとじわりと絡む。箸を持ったとき、器の縁がほんのりと温かかった。

二人で向かい合って、ほぼ黙って食べた。静かな夜に、二人でする食事というのは、こういうものだと思う。特別なことは何もない。でも、だからこそ何かが残る。

麺を半分ほど食べたところで、彼が「ちょっと塩、足りなかったかな」とつぶやいた。わたしは「そう? わたしはちょうどいいと思う」と言った。正直なところ、少し薄いとは感じていた。でもそれを言わなかったのは、嘘をついたわけではなく、この夜の味として、これがちょうどよかったからだ。

完璧な料理より、誰かが時間をかけて作った料理の方が、なぜかずっと深くしみる。

食べ終えたあと、彼がお茶を入れてくれた。ほうじ茶だった。湯気が細く立ち上って、すぐに消えた。わたしはカップを両手で包んで、ただそこに座っていた。窓の外では、雨がまた降り始めていた。音もなく、静かに。

この夜のことを、たぶんしばらく忘れないと思う。料理の味よりも、あの台所の香りと、彼の背中と、少しだけ薄かった醤油の味を。

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