静かな夜に二人でつくる料理が、言葉よりも深く伝えるもの

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四月の夜は、思ったよりも早く冷える。

窓の外では風が細い枝を揺らしていて、カーテン越しにその影がゆらゆらと壁に映っていた。時刻は午後八時をすこし過ぎたころ。キッチンのオーバーヘッドライトだけを点けて、あとはダイニングのフロアランプを低めに絞った。そういう光の加減が、二人の夜には似合う気がしていた。

彼女が冷蔵庫を開けるたびに、白い光がふわっと広がる。「鶏むね、あったよ」と言いながら振り返るその横顔を、なんとなく見ていた。今夜は特別な料理をするわけでもない。ただ、二人で同じキッチンに立って、同じ鍋を囲む。それだけのことが、なぜかひどく贅沢に感じられる夜がある。

まな板の上でにんにくを潰すと、ぱん、と小気味よい音が鳴った。その香りがすぐに部屋に広がって、お腹が鳴る。ちょっと恥ずかしい。彼女は気づいていないふりをしてくれたけれど、口元がわずかに緩んでいた。——まあ、いい。空腹は正直だ。

フライパンにオリーブオイルを引いて、にんにくをゆっくり炒める。じゅわ、という音とともに香りが立ち上がる瞬間が好きだ。子どもの頃、母がこうして夕飯をつくるたびに、その音と匂いを聞きながら宿題をしていた記憶がある。あの頃は料理なんてまったく興味がなかったのに、今では自分がその音を立てている。不思議なものだ。

「一汁三菜ボウル」という言葉が最近よく目に入る。一つの器に主食も副菜も汁ものも盛り込んで、自分をいたわるための一杯をつくる
——そんな食の流れが静かに広まっているらしい。二人でつくるとなれば、それはもう少し豊かになる。器が二つ並んで、向かいに誰かがいる。それだけで、料理の意味がすこし変わる。

鶏肉に塩をなじませながら、彼女が「今日ね、ちょっと疲れた」とぽつりと言った。大したことではないのかもしれない。でも、その言葉は静かな夜のキッチンにするりと落ちて、消えずに残った。何も言わずにフライパンの火を少し弱めた。ゆっくり火を通すほうが、肉はやわらかくなる。

架空のブランド「Lumi Eats」のシンプルな白い器を二枚、棚から出した。以前、二人で雑貨屋を歩いているときに彼女が選んだものだ。「これ、なんか好き」とだけ言って手に取った、あの器。今夜みたいな夜に、こういう器が似合うと思っていた。

ご飯を盛って、炒めた鶏肉と蒸した野菜をのせて、仕上げに自家製の生姜だれをひとまわし。湯気が立ちのぼる。テーブルに並べると、部屋がすこしだけ明るくなったような気がした。料理の香りって、そういう力を持っている。

向かい合って座って、「いただきます」を言う。静かな夜に、二人で。それだけのことなのに、なんだか胸のあたりがあたたかい。箸を持った彼女の手が、ふと止まった。「おいしい」と言う前に、その顔がやわらかくほどけた。言葉より先に、表情が答えてくれた。

料理は、誰かのためにつくるとき、不思議なほど丁寧になる。塩の量を気にして、火加減を何度も確かめて、盛り付けをすこし整えてみる。普段の自分ひとりの食事ではしないようなことを、自然とやっている。

「癒やしニーズ」の強まりとともに、「自分ご褒美」という言葉がまた聞かれるようになっているという。ひとときの安らぎと幸福感をもたらしてくれる食への期待は、ますます高まっている
らしい。でも、二人でいるときは、それが「自分ご褒美」ではなく「お互いへのご褒美」になる気がする。

食べ終わって、お茶を淹れた。湯気がゆらゆらと立ちのぼるカップを彼女に渡すと、両手で受け取って、少し目を細めた。その仕草がなんでもないようで、ずっと覚えていたくなるような気がした。

静かな夜の料理には、言葉のいらない何かがある。音と香りと温度と、向かいにいる人の顔。それだけで、十分すぎるくらいだ。

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