
秋の終わりかけた週末、標高800メートルほどの「ミドリノ高原キャンプ場」に家族四人で乗り込んだ。テントを張り終えたのが午後三時すぎ。空はまだ明るかったけれど、風はすでに冬の匂いを帯びていて、吐く息がうっすら白くなり始めていた。子どもたちは到着早々、落ち葉を踏みしめながら斜面を駆け回っていた。サクッ、サクッ、という音が遠くから届いてくる。
料理の準備を始めたのは夕暮れが近づいた頃だった。
焚き火台に火をおこして、鉄のスキレットを乗せる。油をひくと、ジュッという音とともに香ばしい煙が立ち上がった。今夜のメニューはシンプルなキャンプ飯——玉ねぎと鶏もも肉のスキレット焼きと、ダッチオーブンで炊くご飯。それだけ。家では絶対にやらない「ただ焼くだけ」の料理が、なぜかこの場所では最高のごちそうになる。
妻が隣でキャベツを千切りにしながら、「なんで外で食べるとなんでもおいしいんだろうね」とつぶやいた。答えはわからない。でも、焚き火の熱が顔に当たる感覚、木が燃えるパチパチという音、そして鉄鍋から漂うにんにくの香り——それらが全部まとまって「食事」という体験になっているんだと思う。
子どものころ、父に連れられて行ったキャンプを思い出す。あのときも確か、焚き火でウインナーを焼いた。棒の先に刺して、焦げるか焦げないかのギリギリを攻めながら。皮がはじけた瞬間の「パン」という音と、口の中に広がる肉汁の熱さ。あれが「料理ってすごい」と初めて感じた瞬間だったかもしれない。
長男(8歳)がスキレットの様子を覗きに来た。「もう食べられる?」と聞くから「もうちょっと」と答えると、つまらなそうな顔をしながらも、じっとフライパンを見つめている。その横顔が、子どものころの自分と少し重なった。
ちなみに、次男(5歳)はというと、ダッチオーブンのフタを「ちょっとだけ」確認しようとして、熱さに驚いて「あちっ!」と叫び、その場でぴょんと飛び上がっていた。本人はケロッとしていたけれど、傍から見るとなかなかの名場面だった。
日が落ちると、気温はあっという間に下がった。ダウンジャケットを羽織っても、指先がじんじんする。だからこそ、熱々のご飯が格別だった。ダッチオーブンのフタを開けた瞬間、白い蒸気がふわっと広がって、炊きたての米の甘い香りが夜の空気に溶けていく。家族四人が一斉に「おお」と声を上げた。
このとき、料理って本当に「場所」と「人」でできているんだと感じた。同じ食材でも、同じ味付けでも、誰と、どこで食べるかで、まるで別のものになる。2026年のいま、「原点回帰」という言葉が食のトレンドとして語られているけれど、家族でのキャンプ料理ほど、その言葉が似合う体験はないかもしれない。
食事が終わったあと、焚き火を囲んで少しだけ話した。妻は両手でマグカップを包むようにして持ちながら、ぼんやり炎を見ていた。子どもたちはいつの間にか肩を寄せ合って、うとうとし始めていた。焚き火の光が揺れるたびに、四人の影が地面でゆらゆらと踊る。
言葉はほとんどなかった。それでも、何かが満たされていた。
キャンプの料理は、レシピでも技術でもない。手間をかけた分だけ、その場の空気が食卓になる。そういうことを、焚き火の前で静かに学んでいる気がする。来年もまた、この季節に来よう——そう思いながら、少し冷めたスキレットを片付けた。夜風が、ほんの少し優しくなったような気がした。

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