家族でキャンプの料理が、こんなにも心を満たすとは思っていなかった

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夏の終わりが近づく八月の末、空気がまだ熱を持ちながらも、朝だけはひんやりと澄んでいる。そういう季節のはざまに、私たちは家族でキャンプへ出かけた。行き先は長野県の山中にある「ミドリノハラオートキャンプ場」。予約を入れたのは三ヶ月前で、子どもたちがカレンダーに丸をつけてカウントダウンしていたほど、この日を待ちわびていた。

テントを張り終えて一息つくと、すぐに料理の準備が始まる。キャンプの料理は、家のキッチンとは何もかも違う。まず、においが違う。松の葉が焦げる香りと、炭に火が移るときの煙の匂いが混ざって、鼻の奥にじんわりと染み込んでくる。それだけで、なぜかお腹が鳴る。

今回のメニューは、夫が張り切って考えてきた「スキレットで作るキャンプ餃子」だ。家では餃子を包むのが面倒で、いつも市販品に頼っていた。でもキャンプとなると、なぜか「一から作ろう」という気になる。不思議なものだ。子どもたちも粉だらけの手で皮を伸ばし、具材を包もうとするのだが、形がどうにもバナナみたいになってしまって、本人たちは大真面目なのに、見ているこちらはこっそり笑いをこらえていた。

鉄のスキレットに油を引き、餃子を並べる。ジュウッという音が森に響く。その音が、なんとも言えず心地よい。焼き色がついた底面の香ばしさと、蒸気が立ち上る湯気の温かさ。家族四人が鍋を囲んで、誰も何も言わずにその音を聞いている時間があった。会話がなくても、静けさが心地よかった。

料理をしながら、ふと子どもの頃を思い出した。父が庭でバーベキューをするたびに、私は炭の火加減を見るのが好きだった。赤くなったり、白くなったり、風が吹くたびに表情を変える炭の色を、ずっと眺めていた記憶がある。あの頃の父の背中が、今の夫の背中と重なって見えた。

キャンプの料理が特別に感じられるのは、きっと「手間」が見えるからだと思う。火を起こすことから始まって、食材を切って、焼いて、盛り付ける。その一連の流れが、全部目の前で繰り広げられる。家のキッチンでは壁の向こうに隠れてしまう「料理の過程」が、ここでは家族全員の目の前にある。だから、できあがった一皿がどれほどの手間でできているかを、子どもたちも体で知ることができる。

餃子が焼き上がったあと、次は夫が秘密兵器だと言い張っていたダッチオーブンでコーンスープを作った。スーパーで買ってきたとうもろこしを、その場でゆっくり煮込む。とうもろこしの甘い香りが漂い始めると、下の子が「もうできた?」と三回聞いてきた。三回目には夫が「まだ」と言いながら苦笑いをしていた。

日が傾きはじめ、木々の間から差し込む光がオレンジ色に変わる頃、ようやく夕食が整った。紙皿に盛られた料理は、レストランの皿には遠く及ばない。でも、家族全員が「おいしい」と言ったその声は、どこのレストランでも聞けないものだった。

キャンプの料理には、味以上の何かがある。それは、一緒に作ったという事実であり、火の前で過ごした時間であり、煙の匂いをまとって食べたという記憶だ。2026年の食トレンドとして「自分をいたわる料理」が注目されているが、家族でキャンプをしながら作る料理は、自分だけでなく、大切な人たちをいたわる料理でもある。

夜、テントの中で子どもたちが寝息を立て始めた頃、夫と二人で残ったコーンスープを温め直して飲んだ。少し冷えた夜風の中で、スープの温かさが手のひらから体に伝わってきた。何気ない夜だったけれど、たぶんずっと覚えていると思う。来年もまた、キャンプで料理をしよう、と夫がぽつりと言った。私は答える代わりに、カップを両手で包んで、小さくうなずいた。

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