
八月の終わりが近づいた夜、窓を少し開けると生ぬるい風がカーテンをゆらした。まだ夏は終わっていない、そう言い聞かせながら、わたしはキッチンに立っていた。今夜はパーティーの日だ。
近年、小皿料理(タパス)とワインを気軽に楽しめるスペインバルスタイルのお店が日本でも増えてきている
けれど、わたしが好きなのは、その空気をそのまま自分の部屋に持ち込むことだ。テーブルに白いリネンを敷いて、キャンドルをいくつか並べて、スパニッシュ料理の夜を、自分たちだけのものにする。
オリーブオイルをフライパンに注ぐと、にんにくのかけらがじゅっと音を立てた。その瞬間の香りが、台所全体に広がっていく。子どもの頃、母がガーリックを炒めるたびに「今夜はごちそうだ」と思っていた記憶がある。あのころはスペイン料理なんて知らなかったけれど、あの香りの高揚感だけは、今もまったく変わっていない。
スパニッシュ料理の味のベースはにんにくとオリーブオイルで、ソースに凝るよりも新鮮な素材そのものを味わう料理が多い
。だからこそ、素材を選ぶことが全てになる。この夜のためにわたしが選んだのは、近所の魚屋で見つけた大ぶりのたこと、朝市で仕入れたじゃがいも、そしてスペイン産のオリーブオイル「テラ・ソル」だ。小さな瓶に金色の液体が満ちていて、ラベルの文字はよく読めなかったけれど、なんとなく買ってしまった。見た目で選んだオリーブオイルが、こんなに香り高いとは思っていなかった。
アヒージョが煮立ち始めた頃、最初のゲストが来た。友人のさやかが、ワインを一本抱えてドアをくぐってくる。「これ、リオハのやつ。赤でよかった?」と言いながら、少し首をかしげる。その仕草が、なんとなくいつものさやかで、ほっとした。
スペインは世界有数のワインの産地で、地域によって多様なワインが生まれる
。リオハはその中でも代表的な産地のひとつで、ぶどうの深みと土の香りが同居している。栓を抜いた瞬間、部屋にすこし濃い空気が満ちた。
テーブルには少しずつ、料理が並んでいった。
スパニッシュオムレツは簡単に切り分けられるのでパーティーにもおすすめ
だと何かで読んで、じゃがいもと玉ねぎだけで作ったものをどんと中央に置いた。ピンチョスのように串を刺した一口サイズのものも用意したけれど、串が短すぎて全員が指先を油で汚すことになった——これはちょっとした失敗だったが、笑いながら食べるのもまた悪くない。
ワインのグラスが重なる音、誰かが笑う声、アヒージョがまだ小さく泡立てている音。それらが重なって、部屋の中にひとつの時間が生まれていた。
カジュアルな雰囲気から現代的なスペイン料理をコースで楽しむ高級店まで、スパニッシュには豊富なスタイルがある
けれど、こういう夜のよさは、誰も「完璧」を目指していないことにあると思う。
パーティーが深まるにつれ、話題はあちこちへ飛んだ。仕事のこと、旅のこと、誰かが昔スペインで道に迷った話。ワインが二本目に入ったあたりで、さやかがグラスをそっとテーブルに戻しながら「スペイン料理って、なんでこんなに気持ちよく飲めるんだろうね」と言った。答えは出なかったけれど、その問いはそのまま夜の空気に溶けていった。
スペインバルはスペイン人にとって第二の我が家とも言えるほど、日常に根ざした場所だ
。その感覚を、自分たちの食卓に引き寄せること。それがスパニッシュ料理でパーティーをひらく、いちばんの理由かもしれない。料理の温度が少し下がっても、ワインのグラスが空になっても、誰も急がなかった。夏の終わりの夜は、そうやってゆっくりと、けれど確かに更けていった。

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