
五月の朝は、まだ少しだけ冷たい。テントのファスナーを引き上げると、山の空気がどっと流れ込んできた。杉と土と、どこかから漂う焚き火の残り香。昨夜の炎がまだそこにいるみたいな、そういう朝だった。
我が家が家族キャンプを始めたのは、たしか三年前の春のことだ。きっかけは特別なことではなく、夫が「一度くらいやってみたい」と言い出して、子どもたちが「行く行く!」と騒いで、気づいたら私がすべての荷物リストを作っていた。よくある話である。最初のキャンプでは、ダッチオーブンの蓋を開けようとして素手で触れそうになった夫を、全員で「あーっ!」と止めた記憶がある。あの瞬間の空気が、妙に家族らしかった。
料理というものは、場所が変わると味も変わる。これは比喩ではなく、本当にそう感じる。自宅のキッチンで作る肉じゃがより、キャンプ場の焚き火で煮込んだカレーのほうが、なぜか深く、なぜか遠くまで届くような味がする。煙が少し混じっているせいかもしれないし、外の空気の中で食べているせいかもしれない。それとも、みんなが腹を空かせているからかもしれない。
今回のキャンプ場は、長野県の山あいにある「ミドリノマキバ」というところだ。整備されすぎず、かといって不便でもなく、夕方になると向こうの稜線に光が溶けていくような景色が広がる。子どもたちはテントを張り終えるなり、もう川のほうへ走っていってしまった。
昼の料理は、今年のトレンドを少し意識してせいろを持ち込んだ。ブロッコリーと鶏肉と、それからキャンプ場近くの産直で買った小松菜。蒸し上がるまでの時間、蓋の隙間からゆっくりと白い湯気が立ち上る。その湯気を眺めながら、七歳の息子がじっと待っていた。「まだ?」と聞いてくる声が、三分に一回くらいのペースで届く。待てない子どもと、待てる大人の間に流れる時間は、キャンプ場でだけ感じられる独特のテンポがある。
蒸し上がった野菜を一口食べた娘が、「なんか甘い」と言った。それだけの言葉なのに、なぜかうれしかった。シンプルな塩とごま油だけで食べる蒸し料理は、素材の味をそのまま差し出してくる。誤魔化しがない。だから、素直においしい。
夕方、日が傾いてから焚き火を起こした。夫が薪を組みながら、子どもたちに「こうやって空気の通り道を作るんだ」と説明している。去年も同じことを言っていた気がするが、子どもたちは毎回初めて聞くような顔で聞いている。それでいいと思う。
夜の料理はスープだった。鶏ガラのだしに、生姜をたっぷり入れて、最後に春雨を加えた。焚き火の傍らで鍋を囲むと、湯気が顔にかかって温かい。スープの香りと焚き火の煙が混ざり合って、その場所にしかない匂いになる。子どもたちはおかわりを二杯した。夫は三杯だった。
料理をしながら思い出すのは、子どもの頃に祖母の家で食べた鍋のことだ。具材は何だったか正直覚えていないけれど、あの囲む感じ、全員が同じ鍋を見ている感じ、それだけははっきりと残っている。キャンプの食卓は、どこかあの感覚に似ている。家族が同じ火を囲んで、同じ鍋から食べる。それだけのことが、日常では意外と難しい。
食べ終わって、焚き火が小さくなってきた頃、娘がうとうとしながら私の肩にもたれてきた。重さと温かさが伝わってくる。夫がそっとブランケットをかけてやった。息子はまだ起きていて、残り火をじっと見つめていた。
キャンプの料理が美味しい理由を、誰かに聞かれたら何と答えるだろう。空気だとか、開放感だとか、そういう言葉は正しいかもしれないけれど、少し足りない気がする。本当のことを言えば、みんなが腹を空かせて待っていて、誰かが作って、みんなで食べる。ただそれだけのことが、家の中ではなかなかそろわないのだと思う。
翌朝、また冷たい空気の中でコーヒーを淹れた。カップを夫に渡すと、両手で受け取って、ひと口飲んで、「うまい」とだけ言った。その一言が、長い文章より正確だった。

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