
窓の外が少しずつ暗くなっていく、あの時間帯が好きだ。夕方の五時を過ぎたころ、空は橙とも紫ともつかない色に染まり、台所から漂う出汁の香りが家の中をゆっくりと満たしていく。昆布と鰹節が織りなすその香りは、どんなに疲れた日でも、不思議と体の力を抜いてくれる。これが日本料理の持つ、言葉にしにくい力だと思う。
今夜の食卓は、栗おこわと焼き鮭、それから大根と油揚げの味噌汁。一汁三菜という、ごくシンプルな構成。特別な日でもなんでもない、ただの木曜日の夜だ。それでも、家族がそれぞれの席に着いて、箸を手に取る瞬間には、どこかしら儀式めいた静けさがある。
父は無口な人だった。子どもの頃の記憶をたどると、食事中に大きな声で笑ったり、話を盛り上げたりするような人ではなく、ただ黙って、丁寧にご飯を食べていた。その背中を見て育ったせいか、私も食卓では自然と言葉が少なくなる。沈黙が気まずいのではなく、沈黙ごと味わうような感覚、とでも言えばいいだろうか。
長女が「おいしい」とぽつりと言った。それだけで、今日の料理を作った甲斐があったと感じてしまう自分がいる。大げさかもしれないけれど、家族の「おいしい」はどんな言葉よりも正直だ。
栗おこわを茶碗によそいながら、ふと思い出す。去年の秋、はじめて栗の皮を自分でむいたとき、渋皮がうまくはがれず、指先が真っ茶色になった。途中で「もう買ってきた方が早い」と心の中でつぶやいたけれど、結局最後まで格闘して、仕上がりはどこか不格好な栗おこわになった。家族には黙っていたが、夫だけが「あれ、栗の形がいろいろだね」と一言。気づいていたのだ。ちょっと悔しかった。
穏やかな食卓というのは、何も特別なことが起きないからこそ成り立つ。誰かが怒っているわけでも、急いでいるわけでも、泣いているわけでもない。ただ、温かいものが温かいうちに食べられて、隣に誰かがいる。それだけのことが、どれほど贅沢か。
次男がふと箸を置いて、窓の外を見た。何を見ていたのかはわからない。夕暮れ後の空が、もう完全に夜の色に変わりかけていた。その横顔がひどく大人びて見えて、少し胸が痛くなった。子どもというのはいつの間にか、こんなふうに遠くを見るようになる。
味噌汁の椀を両手で包んで、湯気ごと顔に近づける。陶器の温度が手のひらに伝わって、その熱が体の奥まで届くような気がする。「木の実工房」という小さな窯元で買った、少し歪んだ形の椀だ。均一じゃないぶん、手にしっくりとなじむ。日本料理には、こういう器との相性も大切だと、最近しみじみ思うようになった。
家族と食卓を囲む時間は、意識しなければあっという間に過ぎていく。子どもたちが家にいる時間は、思っているよりずっと短い。だから今夜も、出汁の香りを丁寧に立てて、栗を剥いて、焼き鮭の皮がぱりっと焼けるのを確かめながら、ひとつひとつ作る。日本料理の手間は、そのまま家族への気持ちの形だと、私は信じている。
食後、長女が茶碗を流し台に運んでくれた。その後ろ姿を見送りながら、穏やかという言葉の意味を、また少し深く知った気がした。


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