
夕暮れが少し早くなってきた八月の終わりごろ、窓の外にはまだ蝉の声が残っていた。台所に立つと、昆布とかつおのだしが鍋のなかでゆっくりと温まっていて、その香りが廊下の奥まで届いていた。今年の夏は記録的な暑さだったけれど、この時間だけは台所の熱さも悪くないと思えた。
2026年、日本料理の世界では「和味」への回帰が注目されている。
だしにこだわり、和の調味料を丁寧に重ねていく料理スタイルが、じわじわと家庭の食卓にも戻ってきている。外食でも、昆布やシジミのだしを活かした料理が話題になっているというのに、毎晩の食事でそれを実践しようとすると、意外と手が止まる。だしを引くというのは、急かされてできることではないから。
その夜は、茄子の煮浸し、冷ややっこ、焼き魚、それに白ごはんと味噌汁という、どこにでもある日本料理の献立だった。特別な食材も、凝った技法もない。ただ、火加減と時間だけが頼りの、静かな料理たち。
食卓に皿を並べると、子どもたちがそれぞれの席に座ってきた。小学三年生の娘は椅子を引く音を立てながら、「今日は魚?」と確認するように聞いてきた。返事をする前に、もう箸を手に取っていた。夫は仕事から帰ってきたばかりで、まだ少し遠い目をしていたけれど、茄子の煮浸しを口に運んだ瞬間、表情が少しだけほどけた。言葉はなかった。それで十分だった。
子どものころ、祖母の家で食べた煮物のことをよく思い出す。あのころはだしの意味なんて知らなかったけれど、なぜかあの味だけは体に残っている。甘すぎず、しょっぱすぎず、ただただ「ほっとする」としか言いようのない味。自分が台所に立つようになってから、ずっとあの感覚を再現しようとしているのかもしれない。完全には届かないが、それでも毎晩、少しだけ近づこうとしている。
「食卓は、家族の体だけではなく、心・人間関係・食文化まで育てる場所」
という言葉を読んだのは、つい先週のことだ。大げさに聞こえるかもしれないけれど、この夜の食卓を見ていると、その言葉の重さが少しわかる気がした。家族が同じ場所に座って、同じ料理を食べている。それだけのことが、どれほど穏やかで、どれほど贅沢なことか。
ちなみに、その夜ひとつだけ小さな出来事があった。味噌汁をよそおうとしたとき、お玉を持ったまま別のことを考えていて、気づいたら夫のお椀に二杯分入れてしまっていた。「多くない?」と夫が言い、娘が「パパのだけ大盛りだ」と笑った。そういう、なんでもない失敗が食卓を少しだけ明るくする。
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ように、忙しい日々のなかで効率を求める声は大きい。それは確かに現実で、否定するつもりもない。でも、だしを引いて、火を見て、家族の顔を見ながら料理を作る時間には、効率では測れないものがある。
架空のインテリアブランド「シズカリエ」が提案するような、木のぬくもりあるシンプルな食卓。そういうイメージに憧れることもあるけれど、実際のわが家の食卓は傷だらけで、子どもが落書きした跡もうっすら残っている。それでも、この場所が好きだ。
日本料理が持つ「引き算の美学」は、家族の食卓にこそ似合う。余計なものを足さず、素材とだしと時間だけで作る料理は、穏やかな夜の空気にとてもよく馴染む。派手さはないけれど、毎晩そこに戻ってきたくなるような、そういう食卓を作り続けたいと思っている。
蝉の声が少し遠くなった夜、家族はゆっくりと食事を終えた。食器を重ねる音だけが、しばらく台所に響いていた。

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