
七月の夕方というのは、どこか特別な空気をまとっている。まだ陽が沈みきらないうちから、空の端だけがオレンジ色に染まっていて、窓を開けると生ぬるい風がカーテンをゆらす。そんな時間帯に、友達たちが次々とドアをくぐってきた。
「なんか、もうにおいがする」と最初に来た麻衣が言った。玄関先からでも、にんにくをオリーブオイルで炒める香りが漂っていたのだ。あの香りは、人を引き寄せる。理屈ではなく、体が動く。キッチンに立っていた私は、フライパンの前で少しだけ得意な気持ちになっていた。
今日の料理は、イタリアンでいこうと決めていた。前日から仕込んでおいたトマトソース、カプレーゼ用のモッツァレラ、そして手打ちに挑戦した幅広のパッパルデッレ。パスタは子どもの頃から好きで、母が週末に作ってくれた和風のものとは全然違うけれど、粉と卵だけで生地を伸ばしていく作業に、どこか似た懐かしさがある。小麦粉を台にこぼしながら「こんなに力いるの?」と思っていたのは、数年前のこと。今日もこねすぎて少し硬くなってしまったのは、ここだけの話だ。
イタリアンは、家族や友人と食卓を囲む時間を大切にする文化があり、料理には人と人の絆を深める役割もある。
その言葉が、今夜の食卓にそのまま重なっていた。
友達が六人、リビングに集まると、部屋の温度がじわりと上がる。誰かがスピーカーに音楽をつなぎ、誰かがワインのコルクを抜いた。乾いた「ポン」という音が部屋に響いて、それだけで場の空気がほぐれた。イタリアのスパークリングワイン「ヴィッラ・ロッサ・プロセッコ」を持ってきてくれた友人の拓也が、グラスを高く掲げて「乾杯!」と言ったとき、全員の声が重なった。
カプレーゼを皿に並べながら、ふと思う。
イタリアの家庭で親しまれている料理は、家族の絆を深める日常の中心だ。
ここは私の小さなアパートだけれど、今夜ばかりはそういう場所になっている気がした。
テーブルの上には、前菜のカプレーゼ、バジルの葉が濃い緑をしていて、白いモッツァレラとトマトの赤が並ぶと、それだけで絵になる。誰かが「写真撮っていい?」と言って、みんなが一斉にスマホを構えた。その間にも、キッチンからはパスタをゆでるお湯の音と、ソースが煮詰まるぐつぐつという音が続いていた。
パッパルデッレをソースと絡めて盛り付けたとき、隣に立っていた美咲が「わあ」と小さく声を上げた。その「わあ」は、褒め言葉というより、純粋な驚きに近かった。手打ちパスタを家で作る人間が、自分の周りにいるとは思っていなかったのかもしれない。ちょっと照れくさかった。
イタリアンと他のジャンルを融合させる新しい食のスタイルが広がっている
という話を最近読んだけれど、今夜の食卓はそういう洗練さとは少し違う。あくまで「みんなが食べたいもの」を作っただけで、流行を意識したわけではなかった。でも、結果的に、誰もが夢中で食べていた。
食事が進むにつれて、話題はとりとめなく広がっていった。仕事のこと、旅行の計画、誰かの失恋、誰かの転職。笑い声が重なって、グラスが空になるたびに誰かがワインを注いだ。家族、という言葉が自然に出てきたのは、拓也だった。「こういう時間って、家族みたいだよな」と、ぽつりと言った。誰も否定しなかった。
シンプルで手軽に作れるイタリアンコース料理を用意することで、特別なひとときを演出できる。家族や友人との食卓を一層華やかにしてみてほしい。
そのとおりだと、今夜初めて実感した。
デザートのティラミスを出したとき、すでに全員が少し満腹そうにしていた。それでも「一口だけ」と言いながら、気づけば全員が皿を空にしていた。コーヒーの香りとマスカルポーネのなめらかさが、食事の最後をやわらかく包んでくれる。窓の外はすっかり夜になっていて、街の光がぼんやりと見えた。
料理を作るとき、私はいつも少しだけ緊張する。失敗したらどうしよう、という気持ちが、どこかに残っている。でも今夜は、たとえパスタが少し硬くても、ソースが少し濃くても、誰も気にしなかった。それどころか、「これ、どうやって作ったの?」と何度も聞かれた。
食卓は、完璧な料理よりも、一緒にいる時間のほうが大切なのかもしれない。そう思いながら、最後に残ったワインを自分のグラスに注いだ。

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