
キッチンに立つと、いつも彼女はクミンを入れすぎる。
僕らのアパートは築20年くらいの物件なんだけど、なぜかキッチンだけは妙に広くて、二人で並んで料理してもぶつからない。前に住んでた1Kのときは、冷蔵庫開けるだけで相手を押しのけないといけなかったから、それに比べたらかなり快適。休日の夕方、西日が差し込むこの時間帯に料理するのが、なんとなく習慣になってる。
「ねえ、玉ねぎもう一個使っていい?」って彼女が聞いてくる。カレー作るときはいつもこう。レシピなんて最初の5分しか見てない。僕が人参を乱切りにしてる横で、彼女は玉ねぎをひたすら炒めてる。飴色になるまで炒めるっていうやつ、あれ本当に30分くらいかかるんだよね。最初は「そんなに時間かけなくても」って思ってたけど、彼女曰く「ここで手を抜いたら全部台無し」らしい。
鍋からジュワーって音がして、バターと玉ねぎの甘い匂いがキッチン中に広がってくる。この匂い、嫌いじゃない。むしろ好き。窓を開けてるから、たぶん隣の部屋にも流れてってると思うけど。
彼女がスパイスの瓶を並べ始めた時点で、僕は少し身構える。クミン、コリアンダー、ターメリック、カルダモン、それから何か見たことない赤い粉。「これ何?」って聞いたら、「カイエンペッパー。辛くなるやつ」って笑顔で答える。その笑顔が怖い…だけど。
前に一度、彼女の実家でカレー作ったことがあって。あのときは緊張して、スパイスを控えめにしたら「物足りない」って彼女のお母さんに言われた。それ以来、彼女の中で「スパイスは多めが正義」みたいな信念が生まれた気がする。僕の胃袋のことも少しは考えてほしいんだけど、まあ言えないよね。
鍋に肉を入れる。今日は鶏もも肉。豚肉派と鶏肉派で最初は揉めたけど、結局「その日の気分で」ってことに落ち着いた。肉の表面がこんがり焼けてくると、また違う匂いが立ち上ってくる。ニンニクと生姜も入れたから、もう完全に「カレー作ってます」って主張してる匂い。
そういえば大学時代、友達とシェアハウスしてたとき、誰かがカレー作ると必ず他の住人が集まってきたな。あれは不思議な現象だった。みんな「いい匂いだね」って言いながらキッチンに集まって、結局5人分くらい作ることになる。今思えば、あの頃はカレールー使ってたから、こんなに複雑じゃなかったけど。
「はい、スパイス入れるよー」彼女が小さじを持って、次々と鍋に振り入れていく。クミンの香ばしい香り、コリアンダーの柑橘系っぽい香り、それが混ざり合って…って、ちょっと待って。「ねえ、それ大さじじゃない?」「え? あ、ほんとだ」彼女は悪びれもせずに笑ってる。もう遅い。鍋の中はすでにオレンジ色を通り越して、なんか赤茶色い。
トマト缶を入れて、水を加えて、煮込む。ここからが長い。弱火でコトコト、最低でも40分。彼女は「1時間は煮込みたい」って言うけど、僕はお腹空きすぎて待てない派。だいたい50分くらいで妥協する。その間、僕らはキッチンカウンターに座って、缶ビール開けたり、どうでもいい話したり。
「そういえばさ、この前行った『スパイスガーデン』って店、また行きたいね」彼女が言う。あの店、確かに美味しかったけど、食べ終わったあと二人とも汗だくになってたやつ。僕は「うん、まあ…」って曖昧に返事する。正直、あそこまで辛いの、月一が限界なんだけど。
煮込んでる間に米を炊く。これは僕の担当。研いで、水加減して、スイッチ押すだけ。簡単。彼女は「お米の研ぎ方が雑」ってよく言うけど、炊き上がったら一緒だから。
鍋の蓋を開けると、湯気と一緒にスパイスの香りがブワッと広がる。もうこの時点で、鼻の奥がちょっとピリッとする。「味見する?」って彼女がスプーンですくって差し出してくる。一口食べる。美味い。美味いけど、辛い。予想通り辛い。「どう?」「…美味しいよ」嘘はついてない。美味しい。ただ辛いだけで。
ご飯が炊けた。湯気が上がってる炊飯器を開ける瞬間、これも好き。白い米粒がふっくらしてて、ちょっと甘い匂いがする。皿に盛って、カレーをかける。彼女は「ルーとライスは別々に盛る派」で、僕は「ぶっかけ派」。こういう細かい違いが面白い。
テーブルに運んで、二人で向かい合って座る。「いただきます」って言って、スプーンを口に運ぶ。やっぱり辛い。でも、玉ねぎの甘みとか、トマトの酸味とか、スパイスの複雑な香りとか、全部が混ざり合って、確かに美味しい。彼女は満足そうに食べてる。僕は水を飲みながら食べてる。
「次はもうちょっと辛さ控えようか」って彼女が言う。毎回そう言うんだけど、次もたぶん辛い。それでいいのかもしれない、って最近思い始めてる。
皿を洗いながら、明日の昼もカレーだなって考えてる。二日目のカレー、嫌いじゃないし。

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