
四月の終わりというのは、妙に空気が柔らかい。窓を開けると、まだ少し冷たさの残る夜風が部屋に滑り込んできて、それがかえって心地よかった。そんな夜に、久しぶりに友人たちが集まった。
きっかけは他愛もないことで、グループLINEに「韓国料理食べたい」と誰かが投げた一言だった。それだけで、あっという間に話がまとまった。場所は私の家。メニューは、みんなで持ち寄りで決めることにした。
K-POPや韓国ドラマの人気に支えられ、韓国料理は一時的なブームを超えて日本の食文化に深く浸透している
と言われるけれど、それを実感するのはいつも、こういう何気ない夜だと思う。誰かが「サムギョプサルにしよう」と言えば、別の誰かが「チヂミも作りたい」と返す。気づけばテーブルの上が、まるでソウルの屋台みたいな賑わいになっていた。
友人のユリが持ってきたのは、コチュジャンと豆板醤を合わせた自家製タレだった。「ちょっと辛いくらいが一番おいしいんだよ」と言いながら、彼女はそれをぐるりとかき混ぜた。その仕草が、なぜかとても様になっていた。子どもの頃、母がキムチ鍋を作るたびに同じような手つきで鍋をかき混ぜていたのを、不意に思い出した。あの台所の湯気と、コチュジャンの赤い香り。記憶というのは、匂いで戻ってくる。
鉄板の上でサムギョプサルが焼けていく音が、部屋中に響いた。ジュウジュウという音と、豚の脂が弾けるたびに立ち上る煙。換気扇を回しても追いつかないくらいの香ばしさが、部屋の隅々まで満ちていった。誰かが「もう焼けてる!」と声を上げ、誰かが「まだ早い」と返す。それがまた、ワイワイガヤガヤと続いていく。
ありとあらゆる角度から新しいトレンドが飛び出して、一瞬の盛り上がりを見せたかと思えば、すぐ次に移ってしまうのが韓国料理の世界
だと聞いたことがある。でも、この夜のテーブルに並んでいるのは、流行り廃りとは関係のない料理たちだ。サムギョプサル、チヂミ、キムチ、そして誰かが「最近ハマってる」と言って持ってきたカルグクスの乾麺。
昨今の韓国でもカルグクスはトレンドの料理として注目されていて、現代的な専門店が増え、麺にこだわったり、従来にない具を開拓したり、地方ごとの特色あるカルグクスを発掘するなど、洗練と再解釈が急ピッチで進められている
らしい。友人のコウが「これ、新大久保で買ってきた」と誇らしげに袋を取り出した。ブランド名は「ハナソル麺房」。架空かどうかは知らないが、パッケージがやたらおしゃれだった。
チヂミが焼き上がったとき、ユリが取り皿を渡してくれた。その手が少し熱そうで、「あ、熱っ」と小さく声を漏らしながらも、ちゃんと渡してくれた。その動作のちょっとしたズレが、なんとも微笑ましかった。
チヂミの外側はカリッと、中はもっちりとしていた。醤油とごま油を合わせたタレをつけると、香ばしさの中に深いコクが広がる。ちょっと辛いキムチを横に添えれば、それだけで十分すぎるほどだ。
テーブルを囲む四人は、食べながら話し、話しながら食べた。韓国ドラマの話、最近行ったカフェの話、仕事の愚痴、誰かの恋愛相談。話題はとりとめなく飛び回り、それでも料理が真ん中にあるおかげで、どこかちゃんとつながっていた。
若年層を中心に韓国人気は依然として高く、なかでもグルメへの関心は強い
という話を思い出しながら、私はふと考えた。韓国料理が好きなのは、きっと味だけじゃないんだろうと。鍋を囲む文化、大皿を分け合うスタイル、ワイワイガヤガヤとした食卓の空気感。そういうものが、丸ごと好きなんだと思う。
夜が深まるにつれ、部屋の温度がじわりと上がっていった。コチュジャンの辛さが体の芯まで届いて、頬が少し赤くなる。誰かが缶チューハイを開ける音がして、乾杯の声が重なった。
韓国料理の夜というのは、こういうものだ。ちょっと辛くて、少し騒がしくて、気づいたら笑っている。そしてテーブルの上が片付く頃には、どこかほっとした気持ちと、また集まりたいという気持ちが、同じくらいの重さで胸に残っている。

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