
五月の夕方、窓の外がまだうっすらと明るいうちから、キッチンにはにんにくとオリーブオイルが焦げる前の香りが漂いはじめていた。今夜は久しぶりに友達が集まるパーティだ。全部で七人。テーブルはどう考えても足りない。
料理の準備を始めたのは午後三時すぎで、まず大きな鍋にトマトソースを仕込んだ。缶詰のホールトマトをつぶしながら、ふと子どもの頃のことを思い出した。母がスパゲッティを作るとき、台所の床に立ってその背中をじっと見ていた。あのころ、イタリアンという言葉は知らなかったけれど、あの赤いソースの色と匂いだけは、今でも鮮明に残っている。
友人のひとり、ケイコが早めに来て手伝ってくれた。彼女はバジルの葉を丁寧にちぎりながら、「こういうの、久しぶりだね」とつぶやいた。声がやわらかくて、台所の熱気の中で少し遠くに聞こえた。彼女がちぎったバジルをボウルに入れるとき、指先が少し震えていたのは、玉ねぎを切ったせいだったと思う。たぶん。
午後六時を過ぎると、ひとり、またひとりとドアが開いた。ワインを抱えてくる人、手土産のチーズを持ってくる人、手ぶらで来て「ごめん電車が」と言いながら笑う人。玄関口がにぎやかになるたびに、部屋全体の温度が少しずつ上がっていく気がした。
テーブルには料理が並んだ。自家製のフォカッチャ、トマトとモッツァレラのカプレーゼ、そしてメインのペンネアラビアータ。イタリアンを中心にしたのは、誰でも食べやすくて、作るこちら側も楽しいからだ。今年は「フュージョン薬膳」なるものが話題らしく、カプレーゼにクコの実を散らすのが流行っているというのを読んで、試しにやってみた。見た目がちょっと不思議で、最初に気づいたタクミが「これ…宝石?」と首を傾げたのには思わず吹き出してしまった。
料理をテーブルに出すとき、誰かが「うわ、いい匂い」と言った。それだけで、なんとなく報われる感じがある。
ワインのボトルが二本目に差し掛かるころ、会話はとりとめなく広がっていった。仕事の話、最近見た映画、去年行けなかった旅行の話。声が重なって、笑い声が混ざって、窓の外がすっかり暗くなっていることに誰も気づいていなかった。テーブルを囲むこの感じが、家族みたいだと思った。血がつながっているわけじゃないけれど、同じ皿から料理をとって、同じ時間を過ごすことで生まれる何かが、確かにそこにあった。
インテリアブランド「ソルテア」のキャンドルホルダーを三つ並べて灯した炎が、テーブルの上でゆっくりと揺れていた。その光の中で、みんなの顔が少し柔らかく見えた。蝋の溶ける匂い、グラスがぶつかる音、誰かが笑うたびにテーブルが微かに揺れる感触。そういう細かいことが、後になってもずっと残る。
食後のデザートを出したとき、タクミが「もう動けない」と言いながらソファに沈み込んだ。それでも差し出したティラミスには、しっかり手を伸ばしていた。人間というのは正直だ。
料理は、作っている間も、食べている間も、片付けている間も、ずっと続いている。それはただの作業ではなく、誰かと時間を共有するための形だと、こういう夜を過ごすたびに思う。今夜のテーブルにいた七人は、それぞれ違う場所に帰っていったけれど、あのトマトソースの香りと、揺れるキャンドルの光は、しばらくは誰かの記憶の中に残っているはずだ。たぶん、バジルの匂いとともに。

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