家族キャンプの料理が、いちばんおいしい理由

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五月の朝は、思っていたより早く明ける。

テントのファスナーをそっと引き上げると、まだ薄紫色の空気が顔に触れた。草の匂いがした。土の匂いも。標高八百メートルほどの「奥ノ沢キャンプ場」は、朝霧が低く漂っていて、隣のサイトのランタンがぼんやりと滲んで見えた。こういう瞬間のためだけに、キャンプに来ているのかもしれないと思う。

子どもたちはまだ寝ていた。シュラフにくるまって、二人とも口を少し開けたまま。そのまま見ていると笑えてくる。

焚き火台に薪をくべながら、昨晩仕込んでおいたスープの鍋を火にかけた。鶏手羽と玉ねぎと、それから少しだけ生姜。沸騰しないよう弱火でじっくり温めていると、湯気がゆっくりと立ち上がってくる。その香りが朝の冷気に混じって、なんとも言えない柔らかさを持っていた。料理というより、儀式に近い感覚がある。

思えば子どもの頃、父がよくやっていた。河原でのバーベキューで、炭の火加減ばかり気にしながら、肉を焼くタイミングを外して真っ黒にしていた。家族全員が「あ、また焦げた」と思いながらも、誰も何も言わなかった。それでも食べた。おいしかった。あの焦げた肉の味が、なぜか今も頭の中に残っている。

キャンプの料理には、失敗が似合う。

今日の朝ごはんはダッチオーブンで焼くパンと、スープと、ベーコンのソテー。シンプルだけれど、外で食べるというだけで全部が違って見える。娘がそろそろ起き出してきた。寝ぐせのついた髪のまま、毛布を引きずりながらテントから出てきて、スープの匂いに気づいたのか、ふらふらと火のそばに寄ってくる。「いいにおい」と言って、それだけ言って、また目を閉じかけていた。半分眠ったまま立っている、その姿がなんとも愛しかった。

息子は少し遅れて起きてきて、開口一番「パン焼けた?」と聞いた。挨拶より先にパンの話をするあたり、キャンプに慣れてきたのだと思う。

ダッチオーブンの蓋を持ち上げると、ふわっと香ばしい匂いが広がった。底面がほんのり茶色く色づいた丸いパンが、きれいに膨らんでいる。これは成功だ。去年のキャンプでは生焼けで、中がどろどろのまま食べるはめになったので、今回は時間をかけた。家族に「また失敗するんじゃないか」という目で見られながら蓋を開けたので、うまくいったときの達成感はひとしおだった。

スープを木のカップに注いで、家族それぞれに手渡す。娘がカップを受け取るとき、両手でしっかり包むようにして「あったかい」と言った。その仕草がなぜかずっと記憶に残るような気がして、少しだけ目に焼き付けておいた。

食べながら、特に何も話さない時間があった。

焚き火の音と、遠くで鳥が鳴く声と、スープをすする音だけが重なっていた。こういう沈黙が、家族の間にあるということが、たぶん豊かさの一種なのだと思う。日常の食卓では、テレビがついていたり、誰かがスマートフォンを見ていたりして、こんなふうに静かに食べることはあまりない。

キャンプの料理が特別においしく感じるのは、食材の質だけではないはずだ。手間がかかっていること、外の空気の中で作ること、家族が近くにいること。そのすべてが混ざり合って、ひとつの味になる。

昼には川で魚を捕まえようと息子が言い出して、夕飯のメニューがまだ決まっていない。捕まえられるかどうかわからないけれど、それでいいと思っている。うまくいかなくても、何かを食べる。焦がしても、誰かが笑う。そういう料理の時間が、家族の中に静かに積み重なっていく。

奥ノ沢の朝霧が、少しずつ晴れてきた。

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