料理が冷めないうちに、誰も何も言わなかった夜

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実家の食卓って、いつからこんなに静かになったんだろう。

母が作った煮物の湯気が立ち上っている。父は黙々とご飯を口に運んでいて、妹はスマホを見ながら箸を動かしている。私はといえば、味噌汁の具が沈んでいくのをぼんやり眺めていた。テレビもつけていない。誰かが咳払いをする音だけが、やけに大きく聞こえる。

子どもの頃はもっとうるさかったはずなんだよね。父が仕事の愚痴を言って、母がそれに相槌を打って、私と妹は学校であったくだらない話をして。食事の時間が一日で一番賑やかだった。でも今は違う。みんな何かを話そうとして、結局何も言わずに箸を動かす。そういう夜が増えた。

母の作る日本料理は相変わらず丁寧で、季節の野菜が必ず並ぶ。今夜は筑前煮とほうれん草のお浸し、それに焼き魚。冷蔵庫を開けたときの出汁の香りが台所中に広がっていたのを覚えている。ちゃんと一品一品、手間をかけて作られている。なのに誰もそれについて何も言わない。「美味しい」の一言すら出てこない。美味しいのは分かってるから、わざわざ口にしなくていいと思ってるのか、それとも言うタイミングを逃してしまったのか。

そういえば先週、久しぶりに友達と居酒屋に行ったんだけど。

その店が妙に賑やかで、隣のテーブルの大学生グループが爆笑しながら鍋をつついてて、カウンターではサラリーマンが店員と野球の話で盛り上がってた。私たちのテーブルも、注文した唐揚げが来るたびに「うまっ」とか「これやばい」とか、いちいち声に出してた。食べ物の話だけじゃなくて、仕事の話も恋愛の話も、とりとめもなく喋り続けて、気づいたら終電ギリギリ。ああいう食事って、何食べたかよりも誰と喋ったかの方が記憶に残るんだよね。帰り道、ふと実家の食卓を思い出して、なんだか胸が詰まった。

家族との食事が穏やかなのは、悪いことじゃないと思う。喧嘩もしないし、誰かが不機嫌になることもない。ただ淡々と、料理を口に運んで、お茶を飲んで、ごちそうさまをする。平和といえば平和。でもこの静けさって、本当に穏やかなんだろうか。それとも、ただ何も言わなくなっただけなんだろうか。

父の箸が止まった。何か言うのかと思ったら、ただ湯呑みに手を伸ばしただけだった。

母は食べ終わった皿を重ね始める。いつもより少し早い気がする。妹はまだ半分くらい残してるのに、もうスマホに夢中で箸が止まってる。私は味噌汁を飲み干して、ご飯粒を集めた。誰かが「ごちそうさま」と言うまで、この時間は続く。

実家を出て一人暮らしを始めてから、コンビニ弁当を黙々と食べる夜が増えた。テレビをつけて、YouTubeを流して、とにかく無音を避けようとする。一人の食事が寂しいんじゃなくて、静かすぎるのが怖いんだと思う。だから音を埋める。でも実家に帰ってきても、結局静かなんだよね。人がいるのに、会話がない静けさ。どっちがマシなのかは、正直分からない。

母が「お代わりは?」と聞いた。

久しぶりに誰かの声が聞こえた気がして、少しほっとした。父が「もういい」と短く答えて、また静寂が戻る。私は「ごちそうさま」と言って席を立った。母の作った料理は、ちゃんと美味しかった。それだけは確かなんだけど。

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