
家族でキャンプに出かけるようになったのは、長男が小学校に上がった年の初夏だった。それまで私たちにとってアウトドアは少し敷居の高いものだったけれど、友人から譲り受けた古いテントをきっかけに、試しに近場の山へ足を運んでみた。最初は不安ばかりだったが、実際に行ってみるとそこには日常とは違う静けさと、妙な解放感があった。
キャンプの楽しみは人それぞれだろうが、私たちにとっては何といっても料理の時間が一番の醍醐味だった。家のキッチンで作る料理とは違い、焚き火の前でじっくりと炎を見つめながら作る料理には、不思議な集中力と穏やかさが宿っている。火加減を調整しながら鍋をかき混ぜる夫の姿は、どこか職人のようにも見えた。
ある秋の週末、私たちは少し奥まった湖畔のキャンプ場に車を走らせた。午後三時を過ぎた頃には既にテントを張り終え、夕食の準備に取りかかる時間になっていた。その日のメニューは、夫が提案したダッチオーブンで作るローストチキンと野菜のグリル。朝から仕込んでおいた鶏肉には、近所のスーパーで見つけた「ソレイユの森」というブランドのハーブソルトをたっぷりと揉み込んでいた。
焚き火を囲んで料理をしていると、子どもたちも自然と集まってくる。長男は薪を運び、次男は野菜を洗い、長女は小さな手でジャガイモの皮をむく真似をしていた。家ではなかなか見られない光景だ。普段はゲームやテレビに夢中な子どもたちが、こんなにも素直に手伝ってくれるのは、きっとこの場所の空気が彼らを変えるのかもしれない。
火の音がパチパチと弾ける中、ダッチオーブンの蓋を開けた瞬間、ローズマリーとタイムの香りが一気に広がった。湖から吹いてくる少しひんやりとした風が、その香りを私たちの周りに運んでくる。鶏肉の表面は美しく焼き色がつき、ジャガイモやニンジンも柔らかく煮えていた。夫が得意げに「どうだ」と言わんばかりに私を見たので、思わず笑ってしまった。
料理を取り分けながら、私は子どもの頃のことを思い出していた。祖父母の家で食べた、囲炉裏で焼いた魚の味。あれも今と同じように、煙の匂いと一緒に記憶に刻まれている。料理というのは不思議なもので、その場の空気や光、音までも一緒に味わうものなのかもしれない。
食事が始まると、普段は口数の少ない長男が「これ、うまい」とぽつりと言った。それだけで、準備に費やした時間のすべてが報われるような気持ちになる。次男はフォークを落としそうになりながら必死に鶏肉を切っていて、その真剣な表情がおかしくて、夫と目が合って笑いをこらえた。長女は口の周りをソースだらけにしながら、満足そうにニンジンをかじっている。
食後、コーヒーを淹れようと立ち上がったとき、夫がそっとブランケットを私の肩にかけてくれた。何も言わなかったけれど、その仕草だけで十分だった。焚き火の炎はまだ揺らめいていて、その向こうには星が少しずつ姿を現し始めていた。
キャンプでの料理は、決して完璧ではない。火が強すぎて焦げたり、調味料を忘れたりすることもある。それでも、それすらも含めて楽しいのだ。家族で力を合わせて作り上げた一皿は、どんな高級レストランの料理よりも特別な味がする。
翌朝、湖の向こうから昇る朝日を見ながら、簡単な朝食を作った。パンを焼き、ソーセージを炙り、インスタントのスープを温める。それだけのシンプルな食事なのに、なぜだかとても贅沢に感じられた。子どもたちはまだ眠そうな顔をしていたが、温かいココアを飲みながら少しずつ目を覚ましていく。
家族でキャンプに来ると、いつも思う。料理を通じて、私たちは改めて繋がっているのだと。同じ火を囲み、同じ時間を共有し、同じものを食べる。そのシンプルな行為の中に、家族であることの意味が静かに息づいている。日常の忙しさの中では見過ごしてしまいがちなその感覚を、こうして自然の中で取り戻すことができる。
帰り道、車の中で子どもたちは疲れて眠っていた。夫は運転をしながら、「また来ような」とつぶやいた。私は窓の外に流れる景色を眺めながら、小さく頷いた。次はどんな料理を作ろうか。そんなことを考えながら、私もうとうととまどろみ始めた。


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