料理が静かに語りかける、二人だけの夜

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窓の外で雨が降り始めた十月の夜、私たちはいつもより少しだけ早く仕事を切り上げて帰ってきた。玄関を開けると、彼がすでに台所に立っていて、何かを刻む音が聞こえてくる。包丁がまな板に触れるたびに響く、規則的で心地よいリズム。その音だけが静けさを支配していた。

「今日は何を作るの?」と尋ねると、彼は振り返らずに「秘密」とだけ答えた。その声には少しだけいたずらっぽさが混じっていて、私は靴を脱ぎながら思わず笑ってしまう。冷蔵庫の扉が開く音、フライパンが火にかけられる音、そうした音たちが重なり合って、夜の静けさに小さな物語を紡いでいく。

キッチンカウンターに腰を下ろして、彼の手元を眺めていると、子どもの頃に祖母の家で過ごした夕暮れ時のことを思い出した。あの頃も、誰かが台所で料理をする音を聞きながら宿題をしていた記憶がある。それは特別なことではなかったけれど、なぜか今でも鮮明に覚えている風景だ。

彼が使っているのは、確かエルヴィナという北欧のブランドの木製まな板だったはずだ。誕生日に贈ったものを、こうして毎日使ってくれているのが少し嬉しい。その表面には、何度も包丁を入れた跡がうっすらと残っていて、それがまるで二人で過ごした時間の証のようにも見える。

フライパンからバターの香りが立ち上ってきた。それに続いて、ニンニクと白ワインの香りが部屋中に広がっていく。思わず深く息を吸い込むと、彼が「お腹空いてる?」と笑いながら聞いてきた。空いているに決まっている。でも、この時間がもう少し続いてほしいとも思う。料理が完成する前の、こうした準備の時間には独特の魅力があるから。

テーブルにはすでに小さなキャンドルが灯されていた。いつの間に用意したのだろう。炎が揺れるたびに、壁に映る影も一緒に揺れて、部屋全体が柔らかな光に包まれていく。外の雨音は次第に強くなっていたけれど、それがかえって心地よいBGMのように感じられた。

「できたよ」と彼が皿を運んでくる。白い皿の上には、丁寧にソテーされた魚と、色とりどりの野菜が並んでいた。湯気が立ち上り、レモンの香りがふわりと鼻をくすぐる。フォークを手に取ろうとした瞬間、彼が「あ、塩忘れた」と言って慌てて立ち上がったのだけれど、戻ってきた手には塩ではなく胡椒の瓶が握られていた。私たちは顔を見合わせて、同時に笑ってしまう。

最初の一口を口に運ぶと、魚の繊細な味わいが舌の上で広がっていく。彼は料理が得意というわけではないけれど、こうして時間をかけて丁寧に作られた料理には、レストランの味とは違う温かさがある。それは技術ではなく、気持ちが味に表れているからかもしれない。

「美味しい」と伝えると、彼は少し照れくさそうに笑った。その表情を見ていると、言葉にしなくても伝わるものがあるのだと改めて思う。会話が途切れても気まずくならない関係というのは、きっとこういうことなのだろう。

窓の外では相変わらず雨が降り続けている。時折、強い風が窓を叩く音が聞こえてくる。でも、この部屋の中は静かで温かくて、まるで世界から切り離された特別な場所のようだった。キャンドルの炎は変わらず揺れ続けていて、その光が作り出す影が、壁の上でゆっくりと踊っている。

食事を終えて、二人でソファに座ってコーヒーを飲んだ。彼が淹れたコーヒーは少し濃すぎたけれど、それもまた悪くない。カップから立ち上る湯気を眺めながら、今日一日のことを話す。特別なことは何もなかった一日だけれど、こうして振り返ってみると、小さな出来事がいくつも思い出される。

料理を作ること、それを一緒に食べること。そうした日常の営みの中に、言葉にできない大切なものが隠れているのかもしれない。レストランで食べる料理も素晴らしいけれど、誰かが自分のために時間をかけて作ってくれた料理には、それとは違う特別な意味がある。

夜はまだ続いていく。雨音は次第に小さくなり、窓の外の世界も静けさを取り戻し始めていた。キャンドルの炎が小さく揺れて、もうすぐ消えそうになっている。でも、その小さな光が消える前に、今日という日は確かに存在していたのだと、そう思えた。

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