静かな夜に灯る、家族の日本料理

Uncategorized

ALT

窓の外では、十一月の夕暮れがゆっくりと藍色に変わっていく。台所から漂ってくるのは、昆布と鰹節を合わせた出汁の香り。それだけで、今日という一日が終わりに向かっていることを、体のどこかが静かに受け取る。

母が鍋の火を落とした音がした。コトン、という小さな音。それだけなのに、食卓に座っている父がすっと背筋を伸ばした。長年の習慣というのは、言葉よりも先に体に届くらしい。

食卓は「ハルノキ」というインテリアブランドで揃えた、節のある栗材のテーブルだ。購入したのは三年前、引っ越しのときだった。少し高かったけれど、家族みんなが納得して選んだ。今では傷もいくつかついていて、それがかえって馴染んでいる。

箸が並び、小鉢が置かれ、炊きたての白米が茶碗に盛られる。日本料理の食卓というのは、派手さがない。でも、その地味さの中に、何か確かなものが積み重なっている気がする。

子どもの頃、祖母の家で食べた筑前煮のことを、ふと思い出した。具材がどれも同じ大きさに切られていて、どれを食べても味がきちんと染みていた。あの均一さは、何時間もかけて煮含めた結果だと、大人になってから初めてわかった。今夜の食卓にも、小鉢に筑前煮がある。母が作ったもの。祖母のものとは少し違う味だけれど、それでいいと思っている。

父が味噌汁の椀を両手で持ち上げ、一口飲んだ。何も言わなかった。でも、その間の取り方が、「おいしい」という言葉よりも雄弁だった。

中学生の息子は、最初のうちスマートフォンをちらちら気にしていたが、白米と鯖の塩焼きが目の前に来た瞬間、画面への関心をあっさり手放した。魚の力は偉大だ、と心の中で少しだけ笑った。

箸の音、茶碗が置かれる音、誰かが静かに息を吐く音。食卓の上に漂う湯気が、電球の光を柔らかく散らしていた。外はもう暗い。窓ガラスに映る室内の光が、もうひとつの食卓みたいに見える。

会話が少ないのは、うちの家族の昔からの特徴だ。沈黙が気まずいわけではない。むしろ、この静けさの中に、それぞれが今日一日を静かに消化している時間があると思っている。穏やかな食卓というのは、にぎやかさだけで作られるものではないのかもしれない。

母が最後に自分の分を持ってきて、椅子に座った。いつも家族全員が揃ってから自分の箸を持つ。それが当たり前すぎて、長い間気にも留めていなかった。でも最近、そのことが妙に胸に残る。

日本料理の根っこには、素材を活かすという考え方がある。出汁も、塩加減も、火の入れ方も、素材が持っているものを引き出すための手段だ。それは料理だけの話ではないかもしれない、と思うこともある。家族もそうで、それぞれの持っているものを、無理に変えようとしない関係が、この食卓には流れている。

鯖の皮がぱりっと焼けていた。箸を入れると、身がほろりとほぐれた。塩が効いていて、白米が進む。こういう単純な組み合わせが、なぜこんなにも安心するのか、うまく説明できない。でも、説明できなくていいとも思う。

食事が終わりに近づいても、誰も急がなかった。息子がお茶を一杯もらって、それをゆっくり飲んでいた。父は小鉢の残りを丁寧にさらえていた。母はすでに片付けのことを考えているのか、少し遠い目をしていたけれど、それも含めてこの時間だ。

十一月の夜は早く冷える。でも、食卓の上の空気はまだ温かかった。湯気の名残と、体の熱と、ともに食べた時間が、そこに少しだけ留まっている。

穏やかという言葉は、ときに退屈と間違われる。でも、この食卓の静けさは、退屈とは違う。満ちている、という感覚に近い。家族がそれぞれの場所に座って、同じものを食べている。それだけのことが、思いのほか、深いところに届いている夜だった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました