
実家の食卓は、いつも静かだった。
テレビをつける家庭もあるらしいけど、うちは違った。父が箸を置く音、母が味噌汁をすくう音、弟がご飯を噛む音。そういう小さな音だけが、夕方六時半の食卓を満たしていた。会話がないわけじゃない。「醤油取って」とか「おかわりある?」とか、そういう最小限の言葉は飛び交う。でも基本的には、みんな黙々と食べていた。
母の作る料理は、いつも同じようなラインナップだった。肉じゃが、生姜焼き、鯖の味噌煮、ほうれん草のお浸し。日本料理の定番というか、どこの家庭でも出てきそうなメニューばかり。私はそれを二十年以上食べ続けて育った。特別美味しいとも思わなかったし、まずいとも思わなかった。ただ「うちの味」として、何の疑問も持たずに受け入れていた。
一人暮らしを始めてから、料理を自分で作るようになった。最初はレシピサイトを見ながら、見よう見まねで作っていたんだけど、ある日ふと気づいたことがある。私が作った肉じゃが、母のより明らかに美味しい。いや、これは自惚れじゃなくて、本当にそうだった。味が染みているし、じゃがいもがホクホクしているし、何より出汁の香りがちゃんとする。
そこから色々思い返してみると、母の料理には決定的に何かが欠けていた。出汁を取らない。調味料の分量を測らない。火加減を気にしない。煮物なのに落し蓋をしない。要するに、全部なんとなくの感覚でやっていたんだと思う。それでも食べられないほど不味いわけじゃなかったから、誰も何も言わなかった。父も弟も、きっと気づいていたんだろうけど。
この前、久しぶりに実家に帰ったとき、また同じ静かな食卓があった。変わらない肉じゃが、変わらない味噌汁、変わらない沈黙。
箸を口に運びながら、私は少し複雑な気持ちになった。母の料理が特別上手じゃなかったことに気づいてしまった今、この食卓をどう受け止めればいいのか分からなくなっていた。でも不思議なことに、その味は確かに「懐かしい」と感じる自分もいる。美味しいかどうかじゃなくて、ただ知っている味。三十年以上前から変わらず存在している、あの味。
昔、友達の家でご飯をご馳走になったことがある。その子のお母さんは料理が上手で、出てきた唐揚げが信じられないくらいジューシーだった。「うちのお母さん、料理教室の先生なんだ」って友達が誇らしげに言っていたのを覚えている。私はその時、なんとも言えない気持ちになった。羨ましいような、でも別に自分の家を否定したいわけでもないような。帰り道、コンビニで買ったアイスを食べながら、どうでもいいことを考えていた。料理が上手い母親と下手な母親、どっちが幸せなんだろうって。答えなんて出るわけないんだけど。
母は料理以外のことには、けっこう器用だった。裁縫とか、家計のやりくりとか、近所付き合いとか。ただ料理だけが、なぜか致命的にセンスがなかった。いや、センスというより、興味がなかったのかもしれない。「食べられればいい」っていう、実に合理的な考え方の持ち主だった。
食卓の静けさには、そういう母の価値観が反映されていたんだと思う。食事は栄養を摂取する時間であって、楽しむものではない。家族で会話を弾ませる場でもない。ただ淡々と、一日の終わりに体を満たす行為。そういう穏やかで、ある意味では諦めに似た空気が、いつもあの食卓を包んでいた。
今の私は、料理をするのが好きだ。新しいレシピに挑戦したり、スパイスを揃えたり、盛り付けを工夫したり。母とは真逆のアプローチで、食事を楽しもうとしている。それは母への反発なのか、それとも母から受け継いだ何かを自分なりに昇華させようとしているのか、自分でもよく分からない。
ただひとつ言えるのは、母の作る下手な肉じゃがを食べながら過ごした静かな食卓が、私の中に確実に残っているということ。美味しくはなかったけど、あれはあれで悪くなかった…のかもしれない。
正直、まだ答えは出ていない。


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