料理を囲む夜は、いつも誰かの笑い声から始まる

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窓の外がうっすらと暮れかけた十一月の土曜日、友人たちが次々とやってきた。玄関を開けるたび冷たい空気が流れ込んで、部屋の中の温もりとの境界線がはっきりと肌に伝わってくる。誰かがコートを脱ぎながら「寒かった」と呟き、別の誰かがビニール袋を抱えて「これ冷蔵庫入れていい?」と訊いてくる。そういうやりとりが重なり合って、少しずつ部屋に賑やかさが満ちていくのだった。

今夜の献立は韓国料理にしようと決めたのは、誰の提案だったか思い出せない。けれどもいつの間にか全員が賛成していて、買い出しリストには唐辛子とコチュジャンと豚バラ肉が並んでいた。ちょっと辛いものが食べたい気分だったのかもしれない。それとも、ワイワイガヤガヤと騒ぎながら鍋を囲むには、熱々のスープがちょうどいいと誰かが直感したのかもしれなかった。

キッチンに立つと、まな板の上に並んだ野菜たちが静かに出番を待っている。白菜を切りながら、子どもの頃に母が作ってくれたキムチ鍋を思い出した。あの頃はまだ辛いものが苦手で、スープを少しだけ取り分けてもらっていたのだ。いつの間にか辛さに慣れて、今では誰よりも唐辛子を多く入れる側になっている。人の味覚というのは不思議なもので、時間とともに変わっていくのだと、包丁を動かしながらぼんやり考えていた。

「ねえ、この鍋どこで買ったの?」と、後ろから声がかかる。振り返ると友人がキッチンの棚を覗き込んでいた。「ああ、それ『ノルディア』っていうブランドのやつ。去年買ったんだよね」と答えながら、鍋を取り出して火にかける。ホーロー製の重たい蓋を持ち上げると、友人が「意外と重いね」と笑った。力を入れすぎたのか、蓋がちょっとだけ手から滑りかけて、慌てて持ち直す。危ない危ない、と心の中で呟きながら、何事もなかったかのように鍋に水を注いだ。

やがてリビングには六人が集まり、テーブルの上には次々と料理が並んでいく。チヂミを焼く音がジュウジュウと響いて、ごま油の香ばしい匂いが部屋中に広がっていった。誰かが持ってきたキムチを小皿に盛りつけ、別の誰かがビールの缶を開ける音が軽快に響く。準備が整うまでの時間も含めて、こういう集まりの楽しさなのだと思う。

鍋が煮立ち始めると、白い湯気が立ち上って辛そうな匂いが漂ってきた。蓋を開けた瞬間、真っ赤なスープの色に全員が「おお」と声を上げる。ちょっと辛いどころか、見た目だけでもう辛そうだった。けれども誰も怯むことなく、次々と具材を取り分けていく。豆腐が崩れないように慎重にすくい上げる人、豚肉を真っ先に狙う人、それぞれの食べ方があって面白い。

最初の一口を食べた瞬間、予想通りの辛さが口の中に広がった。けれども不思議と嫌な辛さではなく、もう一口食べたくなるような、そんな辛さだった。誰かが「辛い辛い」と言いながらも箸を止めず、別の誰かが「ビール足りるかな」と心配そうに呟いている。会話の合間に笑い声が混ざり、箸がぶつかり合う音が聞こえてくる。ワイワイガヤガヤとした空気が心地よくて、こういう時間がずっと続けばいいのにと思った。

食事が進むにつれて、話題はあちこちに飛んでいく。誰かの仕事の愚痴、最近観た映画の話、来月の予定、些細な日常の出来事。特別なことを話しているわけではないのに、なぜかずっと笑っていられるのが不思議だった。料理を囲むという行為には、人と人との距離を縮める力があるのかもしれない。

ふと気づくと、隣に座っていた友人が少しうとうとしていた。満腹になると眠くなるタイプなのだと、以前にも聞いたことがある。肩が小刻みに揺れているのを見て、誰かがそっと毛布を持ってきてかけてあげた。その優しさに、この場にいる全員の関係性が表れているような気がした。

やがて鍋の中身が少なくなり、誰かが「シメはどうする?」と訊いてくる。ラーメンかご飯か、それとも餅か。意見が分かれて、結局全部入れることになった。無茶な選択だと思いながらも、誰も反対しなかった。こういう時の判断は、論理ではなく勢いで決まるものなのだ。

最後の一滴まで食べ尽くして、ようやくテーブルに静けさが戻ってきた。満腹で動けないと言いながらも、誰も帰ろうとしない。ソファに身体を預けて、ぼんやりとテレビを眺めている人もいれば、スマホを見ている人もいる。それでも誰も孤独ではなくて、同じ空間にいることが心地よかった。

窓の外はすっかり暗くなっていて、街灯の明かりが静かに灯っている。時計を見ると、もう夜の十時を回っていた。こんなにも時間が経っていたのかと驚きながらも、もう少しだけこの時間が続いてほしいと思う。料理を囲む夜は、いつも誰かの笑い声から始まって、穏やかな余韻の中で終わっていくのだった。

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