
友人たちが集まる夜というのは、いつも思いがけない瞬間に満ちている。今回もそうだった。十一月の終わり、窓の外には冷たい雨が降っていて、部屋の中は逆に温かく、料理の香りが立ち込めていた。テーブルには誰かが持ち寄ったイタリアンの大皿が並び、トマトとバジルの香りがオリーブオイルの甘さと混ざり合って、空間全体を柔らかく包んでいる。
私が用意したのは、母がよく作っていたラザニアだった。正確には母のレシピを真似たもので、完全に再現できているかと言われれば自信はない。それでも、子どもの頃に家族で囲んだあの味を、今日ここに集まった友人たちにも届けたいと思った。ホワイトソースを作りながら、私は何度も火加減を間違えて焦がしかけた。最後には少し濃いめの仕上がりになったけれど、それもまた愛嬌だと自分に言い聞かせた。
リビングには七人ほどが集まっていて、誰もが自分の得意料理を持ってきていた。カプレーゼを作ってきた友人は、モッツァレラチーズの水切りが甘かったと笑いながら話していたし、パスタを茹でてきた別の友人は「アルデンテのつもりが少し固すぎたかも」と首を傾げていた。それでも誰も気にしていなかった。むしろそういう不完全さが、この場の居心地の良さを作っているような気がした。
キッチンとリビングを行き来しながら、私は誰かが注いでくれた赤ワインを少しずつ飲んでいた。グラスを持ったまま冷蔵庫を開けようとして、片手がふさがっていることに気づき、一瞬動きが止まる。そんな小さなズレが、夜の中でいくつも重なっていく。
料理が揃い始めると、自然と会話も弾んできた。誰かが「このトマトソース、どこの使ってるの?」と尋ねると、別の誰かが「ああ、それ”ヴェルデ・ソーレ”っていうブランドのやつ」と答える。私はそのブランド名を初めて聞いたけれど、なんだかとても美味しそうに思えた。食べ物の話というのは、いつも人を近づける。
テーブルに全員が座ったのは、準備を始めてから二時間ほど経った頃だった。窓の外の雨音は静かで、部屋の中は笑い声と食器の触れ合う音で満ちていた。誰かがフォークを落として、それを拾おうとして頭をぶつけそうになり、周囲がどっと笑う。そういう瞬間が、この夜の記憶を作っていくのだと思う。
私のラザニアは、予想以上に好評だった。ホワイトソースが少し濃いめだったことも、それが逆に「コクがある」と受け取られて、自分でも驚いた。母に教わったあの頃、私はまだ小学生で、包丁を握ることさえ怖がっていた。それが今では、こうして誰かのために料理を作り、笑顔を受け取ることができる。時間が経つというのは、不思議なものだ。
イタリアンという枠組みの中で、それぞれが持ち寄った料理は微妙に異なっていた。ある人はシンプルな味付けを好み、ある人は香草を効かせ、またある人はチーズをたっぷり使う。それでもどれも美味しくて、どれもその人らしさが出ていた。家族のように過ごす時間の中で、料理はただの食べ物以上の意味を持つようになる。
夜が深まるにつれて、会話の内容も少しずつ変わっていった。仕事の話、恋愛の話、将来の話。誰かが「また来月もやろうよ」と言い、全員が頷いた。その時、私はふとテーブルの上に置かれたキャンドルの炎を見つめていた。揺れる光が、誰かの顔を柔らかく照らしている。温度と香りと音が混ざり合って、ひとつの記憶になっていく。
帰り際、友人の一人が「今日のラザニア、レシピ教えて」と言ってくれた。私は少し照れながら「母のレシピだから、また今度ね」と答えた。彼女は笑顔で頷いて、コートを羽織った。玄関のドアを開けると、冷たい空気が一気に流れ込んできた。それでも胸の中には、まだあの温かさが残っている。
料理を通じて人と繋がるというのは、こういうことなのかもしれない。完璧である必要はなくて、ただそこに誰かを思う気持ちがあればいい。イタリアンという共通のテーマがあって、それぞれが自分なりの解釈を持ち寄る。家族のような時間を過ごして、また次も会いたいと思える関係。そんな夜が、これからも続いていけばいいと思った。


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