料理が結ぶ、ありふれた夕暮れの記憶

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夕方の六時を少し回った頃、キッチンから立ち上る出汁の香りが、リビングまでゆっくりと届いていた。窓の外はまだ薄明るく、秋の日差しが斜めに差し込んで、テーブルの木目を淡く照らしている。母が運んできた湯気の立つ小鉢を見て、父は新聞から顔を上げた。それだけの、何でもない光景だった。

日本料理といっても、特別な会席などではない。ほうれん草のおひたし、焼き鮭、豆腐とわかめの味噌汁。白いご飯が湯気を上げている。そんな、どこの家庭にもある夕食だ。でも、この季節になると、なぜか食卓がいつもより静かに感じられる。夏の終わりから秋へと移り変わる時期は、空気が澄んでいて、物音がくっきりと聞こえるからかもしれない。

箸を取る音、茶碗を持ち上げる音、誰かがお茶を注ぐときの水の音。それらが、会話の合間に挟まれる。父は黙って鮭をほぐし、母は味噌汁の具をゆっくりと掬っている。弟は少し猫背で、ご飯を口に運びながら何かを考えているようだった。私も、特に話すこともなく、ただ箸を動かしていた。

子どもの頃、私はこの静かな時間が少し苦手だった。何か話さなければいけないような気がして、無理に学校のことを話したり、テレビの話題を持ち出したりした。でも、誰も特に反応してくれるわけでもなく、ただ「そうか」とか「ふうん」とか、そんな短い返事が返ってくるだけだった。それがなんだか寂しくて、食事の時間が少し重たく感じられていたのを覚えている。

けれど今は、この静けさが心地よい。何も話さなくても、誰もそれを不自然だとは思わない。ただ、それぞれが自分のペースで食べて、たまに誰かが「おかわり」と言ったり、母が「もう少し食べる?」と尋ねたりする。そんなやりとりが、ぽつりぽつりと交わされるだけだ。

母がふと、醤油差しを取ろうとして、その手が少し滑った。慌てて支えたものの、醤油差しは無事だったのに、なぜか母自身が軽く笑った。「危なかった」と小さく呟いて、また静かに食事に戻る。そのちょっとした瞬間に、弟も私も、なんとなく顔を見合わせて微笑んだ。父は気づいていなかったかもしれないが、それでもよかった。

穏やかな時間というのは、こういうものなのだと思う。何か特別なことが起きるわけでもなく、誰かが感動的な言葉を口にするわけでもない。ただ、同じ食卓を囲んで、同じ料理を食べて、それぞれが少しずつ違うことを考えている。でも、確かにそこには家族がいる。

窓の外で、近所の子どもが自転車で通り過ぎる音が聞こえた。それから、遠くで犬の鳴き声。秋の夕暮れは、音が遠くまで届く。母が立ち上がって、お茶を淹れ直しに行く。父は新聞を畳んで、ゆっくりとご飯を口に運んだ。弟は相変わらず、何かを考えているような顔をしている。

食卓には、ブランド名も何もない、ただの白い陶器の皿が並んでいる。母が昔、近所の雑貨店「カノエ堂」で買ったものだと聞いた。もう何年も使っているから、少し欠けているものもあるけれど、それでも捨てずに使い続けている。そういうものに囲まれた食卓は、なんだか落ち着く。

日本料理の良さは、こういう日常にこそあるのかもしれない。華やかな盛り付けや、目を引く演出ではなく、ただ丁寧に作られた料理が、静かに食卓に並ぶこと。それを囲んで、家族がそれぞれの時間を過ごすこと。誰も急かさず、誰も無理に盛り上げようとしない。ただ、そこにいる。

夕食が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。母が食器を下げ始め、私も手伝おうと立ち上がる。父はまたゆっくりと新聞を広げ、弟は自分の部屋へと戻っていった。キッチンから、水の流れる音が聞こえてくる。

こんな夕食が、これからも続いていくのだろう。特別なことは何もないけれど、それでもこの時間が、いつか遠い記憶になる日が来るのかもしれない。そのときに思い出すのは、きっとこの静かな食卓と、出汁の香りと、家族の何気ない仕草なのだと思う。

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