料理が冷めるまでの、あの静けさについて

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母が味噌汁を運んでくる音だけが聞こえる。

実家の食卓って、いつからこんなに静かになったんだろう。昔はもっとうるさかった気がするんだけど、記憶が美化されてるだけかもしれない。父は新聞を畳んで、妹はスマホを裏返しにして、私は箸を手に取る。誰も「いただきます」とは言わないまま、それぞれが茶碗に手を伸ばす。でもこれが不自然かといえば、そうでもなくて。

煮物の湯気が立ち上って、窓ガラスが少し曇っていく様子を眺めながら、私は焼き魚の皮をゆっくり剥がしていた。秋刀魚だ。脂がのっていて、大根おろしと一緒に食べるとちょうどいい。母は相変わらず味付けが薄めで、父は醤油を足そうとして、母に目で制される。この無言のやりとりも、もう何十年続いているんだろう。

日本料理って、こういう静けさを前提に作られてる気がする。フレンチやイタリアンみたいに、ワイングラスを傾けながら会話を楽しむ料理じゃない。ひとつひとつの皿に向き合って、箸を動かして、咀嚼する音だけが響く空間。それが許される文化というか。

去年の冬、友人に誘われて「旬彩 むつき」っていう小料理屋に行ったことがある。カウンター席で、板前さんが黙々と仕事をしている姿を見ながら食べる懐石だった。隣の客もほとんど喋らない。でもあれは緊張してたからで、実家のこの静けさとは質が違う。こっちはもっと、諦めに似た穏やかさがある。

妹が急須を手に取って、湯呑みにお茶を注ぎ始める。

「ありがとう」と私が言うと、妹は小さく頷いただけだった。父は相変わらず黙って食べている。定年してから、ますます口数が減った。母は私の茶碗が空になってないか気にしながら、自分の分の煮物をつついている。この距離感が、今の私たちには心地いいのかもしれない。無理に会話を作らなくていい、っていう安心感。

テレビはついてない。冷蔵庫のモーター音が時々聞こえるくらいで、あとは箸が茶碗に当たる音、お茶をすする音、誰かが椅子の位置を直す音。そういう小さな音だけで成り立ってる時間。昔はこれが息苦しかった。早く自分の部屋に戻りたくて、ご飯を掻き込んでた。

でも三十過ぎて、一人暮らしも長くなると、この静かな食卓の価値がわかるようになってくる。誰かと同じ空間にいるだけで十分、みたいな。喋らなくても、そこに家族がいる。それだけで料理の味が違って感じられる瞬間がある。

母が作る肉じゃがは、正直そこまで美味しくない。じゃがいもが煮崩れてるし、味の染み込みも甘い。でも文句を言う気にはならなくて。父の食べるペースに合わせて、私も妹もゆっくり箸を動かす。この同調性が、日本の食卓なんだと思う。誰かが急いで食べ終わると、なんとなく場が壊れる。

食後、母が麦茶を出してくれた。夏じゃないのに麦茶。

「コーヒーじゃなくていいの?」って聞いたら、「冷蔵庫にあったから」って。そういう適当さも含めて、実家の食卓だ。完璧じゃないし、インスタ映えもしない。でもこの雑さが、妙に落ち着く。

結局、誰も「ごちそうさま」とは言わないまま、父が立ち上がって居間に移動した。妹は食器を流しに運び始めて、母がそれを受け取る。私はもう少しだけ、この食卓に座っていたかった。料理が完全に冷めきる前の、あの微妙な温度の時間。家族の気配だけが残ってる空間。

穏やかさって、多分こういうことなんだろうな。

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