
「玉ねぎ、もっと薄く切ってよ」って言われた瞬間、ああ今日も負けるなって思った。
彼女とのキッチンは戦場だ。いや、戦場というより、僕が一方的に指導される料理教室みたいなものかもしれない。今日のメニューはカレーライス。スパイスから作るやつ。彼女が「今日はちゃんとしたカレー作ろう」って言い出したのが運の尽きで、僕はクミンとかコリアンダーとか、聞いたこともないスパイスの瓶を次々と並べる羽目になった。キッチンカウンターの上には、色とりどりの小瓶が十数個。まるでどこかの研究室みたいだ。
僕が担当するのは野菜を切ること。それだけ。それなのに玉ねぎの厚さでダメ出しをくらう。「厚いと火の通りが悪いでしょ」って、そんなの知らないよ。包丁を握る手に力が入りすぎて、まな板の上で玉ねぎが逃げていく。彼女は横でトマトを湯むきしながら、僕の手元をちらちら見てる。その視線がプレッシャーで、余計に手元が狂う。
去年の夏、友達の家でバーベキューをしたときのことを思い出した。あのとき僕は肉を焼く係で、みんなから「ちょうどいい焼き加減だね」って褒められたんだ。あれは嬉しかったな。火加減を見ながら、肉をひっくり返すタイミングを計って、焦げ目をつけて。あのときは料理が得意な気がしてた。
でも今は違う。
彼女が「次、にんじん切って。乱切りで」って言う。乱切り?それってどんな切り方だっけ。適当に斜めに切ればいいのか、それとも回転させながら切るやつだっけ。スマホで検索しようとしたら、「見なくてもできるでしょ」って笑われた。仕方なく記憶を頼りに、にんじんに包丁を入れる。形はバラバラ。大きさもバラバラ。でも彼女は何も言わなかった。それが逆に怖い。
フライパンからスパイスの香りが立ち上ってくる。クミンシードが弾ける音。カレーっぽい匂いというより、もっとエスニックで、どこか異国の市場みたいな匂い。窓を開けてないから、キッチン全体がその香りで満たされていく。これ、服に匂いつくやつだ。明日、会社で「カレー食べたの?」って聞かれるやつ。
彼女は慣れた手つきでスパイスを次々と投入していく。ターメリック、パプリカ、ガラムマサラ。僕が切った野菜も、フライパンの中に入っていく。「火加減、中火ね」って言われて、コンロのつまみを調整する。これくらいならできる。僕だってコンロの火加減くらい調整できる。そう思ってたら、「もうちょっと弱くして」って言われた。
二人で料理するのって、こんなに難しいんだな。一人で作るときは適当でいい。失敗しても誰にも見られないし、味が微妙でも自分で食べるだけだから。でも二人だと、相手の期待とか、相手の基準とか、そういうのが気になる。彼女は料理が得意で、僕は得意じゃない。その差が、キッチンという狭い空間で露骨に見えてしまう。
「味見してみて」って、木べらを差し出された。ふーふーして口に入れる。辛い。でも旨い。スパイシーで、でも複雑で、市販のルーとは全然違う味。「どう?」って聞かれて、「美味しい」って答えたら、彼女が嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、ああ、これでいいのかもって思った。僕は野菜を切るのが下手で、火加減の調整もできないけど、彼女が作った料理を美味しいって言える。それだけで、ここにいる意味があるのかもしれない。
ご飯が炊けるまで、あと15分。彼女はカレーの仕上げをしながら、「次は何作ろうか」って言ってる。僕はまな板を洗いながら、「次はもっと簡単なやつがいいな」って答えた。彼女は笑ってる。
キッチンの窓から、夕方の光が差し込んでくる。カレーの匂いと、彼女の笑い声と、まだ少し残ってる玉ねぎの辛味で目がちょっと痛い。
次も多分、僕は野菜を切る係なんだろうな。


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